一定の音を聞くとつねに、一定の色をまざまざと見、一定の香り・匂いを嗅ぐと一定の味覚・視覚・聴覚などありありと(ただ、連想するのではなく、「具体的」に)感じ取る人がいる。
これを共感覚(synesthesia) と呼ぶ。
この感覚をもつ人間は稀にしかいないが、少数ながら昔からいた。
「鋭い音」「黄色い声」
などといっても、私たちがべつに違和感を覚えないのが、その何よりの証拠だ。
芸術家(とくに音楽家)には、この共感覚の持ち主が多い。ロシアの作曲家でピアノ演奏家の『官能の詩』などで有名なスクリャービンは、色光オルガンにより、曲の演奏にあわせて、一種のプロジェクターで、音とともにそれに彼が対応すると感じた色を投写した。彼は、一種の神秘思想家でもあった。
この演奏が終わるやいなや、会場内には拍手と嘲笑とがあい半ばして、ひびきわたったそうだ。
私はそんな感覚の持ち主ではもとよりない。しかし、この人はそうではないかと思う芸術家は何人かいる。
音楽家のルビンシュテイン、ドビュッシー、ラフマニノフ、画家のドラクロアなども、別に根拠はないが、そうだったような気がする。
まあ、これはやはり天才の特権なのかもしれない。でも、私はべつにそれをうらやむつもりはない。ハ長調のミの音を聞いて、口の中が塩気を感じたり、あたり一面がウンコ色に見えたからってどうだというのか。
私は自分が凡人でよかったと思っている。負け惜しみではない。たとえば、前記のようなことが絶えず起こったら、私はたぶん堪えられまい。
それとはちょっと違うのだが、私は、こうも思う。大音楽家、ことに作曲家は、心にひどいバイアスがかかっているだろうから、私のようにモーツァルトを、ベートーベンを聴いても(もちろん特に好きなもの、さして好きでないものもあるが)どれもいいなあと感じることはできまい。
バレエ・リュスのころ、アンナ・パブロワの「瀕死の白鳥」の作曲家、サン・サーンスはやはりこのときに話題を呼んだバレエ「火の鳥」の新進作曲家、ストラヴィンスキーの曲を聞いて、我慢ができず、顔面が蒼白になり、脂汗を全身にかいてほうほうのていで会場から逃げ出した。
でも、私はサン・サーンスもストラヴィンスキーも、それぞれべつの料理を味わうように楽しめる。こうした例を私はいくつも知っている。画の世界でもそうだ。
楽しめる世界をいくつも持っているということは、ステキなことである。前に変人奇人を讃えたが、手前味噌になるかもしれないが、ここで凡人万歳を三唱しておこう。
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