2013年6月26日水曜日

変人奇人こそが新しいものを生む

ものごとを、ほかの多くの人とはちがった角度からみる人間を、世間では「変人・ 奇人」と呼ぶ。

私は、変人奇人が大好きだ。

ガリレオ・ガリレイらが地動説を唱えたとき、ローマ教会の教皇や枢機卿などは、

 「なぜ、誰が見ても、太陽が地球のまわりを回っているのに、教会の教えに背いて、地球が太陽のまわりを回っているなどとへそ曲がりの説をいいふらすのだろう。
この男は無神論者のような、許されざる大悪人ではなさそうだが、度しがたい変人だ、奇人だ」 

として、ガリレイを宗教裁判にかけ、むりやり「もう、こんな説は唱えません」と教会側があらかじめ書いておいた文書に強引に署名させた。

1633年のことである。

その後、9年もの間、彼は軟禁された。そしてガリレイはそのまま死んだ。

それから三百数十年後、ローマ教皇ヨハネ=パウロ二世は、「あのときは、どうも申し訳ありませんでした」と、この宗教裁判の判決を全面的に撤回した。

足利事件の菅谷さんどころではない。

しかし、この偉大な変人・奇人が科学をどれほど進歩させたか、いまさらいうまでもあるまい。

ガリレイより1世紀ほど前の芸術家(といっておこう)のレオナルド・ダ・ビンチも、これまた大変人・大奇人だ。

高齢の老人が穏やかに死を迎えようとしていたとき、レオナルドは、老人とじっくり話を交わし、その精神のありようを確かめた。

そして、目の前でその老人が死んだとたん、すぐさまメスをとって老人を解剖し、まだぬくもりの残っている遺体を仔細に検査し、こうも穏やかな最期を迎えた人間の心と体との秘密を懸命にさぐろうとした。

レオナルドは、医学にさしたる貢献をしたわけではないが、人間をほかの誰よりも具体的に、みつめたその成果は、さまざまな比類のない芸術作品の形で結晶した。

レオナルドは、いろいろな宮廷に仕えて、王侯貴族を楽しませる「イベント」屋だった。

それがむしろ彼の本業で、芸術家というのはレオナルドの一面にすぎない。彼は弦楽器や木管楽器の名演奏者でもあった。

彼の遺稿(大半は散逸してしまったが)を読んでいると、ひょっとしたら、レオナルドもひそかに地動説を支持していたのではないかと思わせる部分さえある。これを変人奇人といわずして何と呼んだらよいだろう。

アロマテラピーの祖、ルネ=モーリス・ガットフォセは、香料化学者で調香師(ネ)だった。

しかし、ルネ=モーリスは偉大さの点では前二者には到底及ばないものの、ひどく好奇心の強い男だった。変人奇人だった。

雑誌を創刊して、香水のレシピを次々に発表したり、ギリシャ以来の史観、つまり人間の歴史は黄金・銀・銅・鉄の4時代からなり、黄金時代は、幸福と平和に満ちた時期だったとする考え方を復活させ、現在は「鉄」の時代だとして、黄金時代に戻ろうという願望を、エッセーや小説などの形式で世の人々に伝えようとしたりした。

かと思うと、かつてローマに支配されてガリアと呼ばれていた、古い時代のフランスの考古学的研究をしたり、失われた大陸アトランティスのことに熱中したりした。

しかし、会社の本業も怠らず、販売する品目を400点ぐらいにまで拡大している。

彼は第一次大戦で戦死した2人の兄弟に、一種の贖罪をしなければならないという気持ちが生涯あったようだ。

1937年にルネ=モーリスは、AROMATHERAPIEという本を出版して、この新たな自然療法を世に問うた。

しかし、時、利あらず、戦雲たちこめるヨーロッパでは、サルファ剤、抗生物質剤ペニシリンによる治療ばかりに人びとの注目が集まり、マルグリット・モーリーのようなこれまた変人を除いて、ほとんど誰もこの新しい療法に注目する人はいなかった。

むろん、例外的に、この療法を獣医学に応用しようとした人もいた。イタリアにも、この新療法にインスパイアされた学者、例えばガッティーやカヨラ、ロヴェスティーなど何人かでた。

しかし、はっきり言ってしまえば、アロマテラピーは事実上黙殺されたのである。1937年以降、ルネ=モーリス自身は、医療技術としてのアロマテラピーを発展させようという意欲をかなり失ってしまったようだ。

以後、彼はコスメトロジーのほうに軸足を移した。

ドゥース・フランス(うまし国フランス)が、ドイツに踏みにじられても、たぶん、ルネ=モーリスは、わが藤原定家のように、

「紅旗征戎(こうきせいじゅう)わが事にあらず」

と、定家とは異なった一種の絶望感とともに、現実をうけとめていたように思われる。

もはや、「黄金」時代にこそふさわしいアロマテラピーは、彼の心を少しずつ去りつつあったのではないか。マルグリット・モーリーは、ルネ=モーリスの弟子だったなどというのはヨタ話もいいところだ。

この二人は会ったことすらないのだから。しかし、マルグリットがガットフォセの着想を自分流に組み立て直して、それを自分のコスメトロジーに組み入れていなければ、そしてまた、第二次大戦中に何かの折にルネ=モーリスの本をのちのジャン・バルネ博士(マルグリット・モーリーが博士の弟子だったというのもヨタ話だ)が読んで、その内容を頭の片隅にとどめていなければ、今日、私たちがアロマテラピーなどという療法をあれこれ考えることもなかったはずだ。

ルネ=モーリス・ガットフォセは、1950年にモロッコのカサブランカで亡くなった。

この記事は参考になりましたか?

少しでも参考になればSNSでシェアしてもらうと嬉しいです。
   ↓ ↓ ↓

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

0 件のコメント:

コメントを投稿