2013年6月27日木曜日

凡人万歳

一定の音を聞くとつねに、一定の色をまざまざと見、一定の香り・匂いを嗅ぐと一定の味覚・視覚・聴覚などありありと(ただ、連想するのではなく、「具体的」に)感じ取る人がいる。

これを共感覚(synesthesia) と呼ぶ。

この感覚をもつ人間は稀にしかいないが、少数ながら昔からいた。
「鋭い音」「黄色い声」
などといっても、私たちがべつに違和感を覚えないのが、その何よりの証拠だ。

芸術家(とくに音楽家)には、この共感覚の持ち主が多い。ロシアの作曲家でピアノ演奏家の『官能の詩』などで有名なスクリャービンは、色光オルガンにより、曲の演奏にあわせて、一種のプロジェクターで、音とともにそれに彼が対応すると感じた色を投写した。彼は、一種の神秘思想家でもあった。

この演奏が終わるやいなや、会場内には拍手と嘲笑とがあい半ばして、ひびきわたったそうだ。

私はそんな感覚の持ち主ではもとよりない。しかし、この人はそうではないかと思う芸術家は何人かいる。

音楽家のルビンシュテイン、ドビュッシー、ラフマニノフ、画家のドラクロアなども、別に根拠はないが、そうだったような気がする。

まあ、これはやはり天才の特権なのかもしれない。でも、私はべつにそれをうらやむつもりはない。ハ長調のミの音を聞いて、口の中が塩気を感じたり、あたり一面がウンコ色に見えたからってどうだというのか。

私は自分が凡人でよかったと思っている。負け惜しみではない。たとえば、前記のようなことが絶えず起こったら、私はたぶん堪えられまい。

それとはちょっと違うのだが、私は、こうも思う。大音楽家、ことに作曲家は、心にひどいバイアスがかかっているだろうから、私のようにモーツァルトを、ベートーベンを聴いても(もちろん特に好きなもの、さして好きでないものもあるが)どれもいいなあと感じることはできまい。

バレエ・リュスのころ、アンナ・パブロワの「瀕死の白鳥」の作曲家、サン・サーンスはやはりこのときに話題を呼んだバレエ「火の鳥」の新進作曲家、ストラヴィンスキーの曲を聞いて、我慢ができず、顔面が蒼白になり、脂汗を全身にかいてほうほうのていで会場から逃げ出した。

でも、私はサン・サーンスもストラヴィンスキーも、それぞれべつの料理を味わうように楽しめる。こうした例を私はいくつも知っている。画の世界でもそうだ。

楽しめる世界をいくつも持っているということは、ステキなことである。前に変人奇人を讃えたが、手前味噌になるかもしれないが、ここで凡人万歳を三唱しておこう。

フランスのアロマテラピーの現状について

越中富山の反魂丹(はんごんたん)
鼻糞丸めて万金丹(まんきんたん)
それを呑む奴ァアンポンタン
 
むかし、富山は薬を製造する産業が盛んだった(まあ、いまもそうだろうが)。その薬は主として大坂に流れ、大坂には薬問屋がたくさんできた。薬品会社が関西に多いのは、そうした歴史があるからだ。富山大学の薬学部が有名なのも、それに関連がある。
 
上掲の俗謡も、そうした背景から生まれた。
 
むかしは、いまのように薬品を、その原料などを国家で定められた基準に従って薬屋が作るなどということは決してなかった。
 
農民や山林の民などは、そんな薬もほとんど買えなかったから、身近な薬草(ドクダミ、ゲンノショウコ、オトギリソウなど)をさまざまに工夫して薬用した。
 
私もこどものころ、栄養不足が原因の免疫不全からか、やたらに体に膿をもつ腫れ物ができた。
 
母は、そんな私の体中の患部にドクダミを焼いてベトベトにしたものを貼りつけた。すると、膿が排出されて、できものがなおるのだった。
 
『アロマテラピー図解事典』( 岩城都子[松田さと子]著、高橋書店刊)という本を書店で立ち読みしたところ、「アロマテラピー先進国であるフランスでは、ドクターが医療現場で精油の効果効能を利用、クライアント(ペイシェントというべきではないか-高山)の治療に使われています」とか、「医療の現場で利用されている」とかと書かれている。
 
アロマテラピーの発祥の地であるフランスでは、医師による『メディカルアロマテラピー』が確立。精油は薬局で処方され、内服も認められている。予防医学のカギを握るものとして普及している」とかといった、私には信じられないようなことが述べられている。
 
これは、考えにくいことだと私は早速これを刊行した書店にたずねた。
 
書店では、英国在住の著者に問い合せてくれた。仏人医師のひとりのその著者への答えとしてこの本の著者は私に以下のように知らせてきた。
To make things simple and clear, I prefer to let you know that medical aromatherapy is mainly practiced by doctors.(MDs) in private practices than in hospitals.
 
In some hospitals, the way essential oils are used is more as a side therapy for the patient's comfort or well being, but not really for the medical treatment itself.
 
In private practices, it is very different, and hundreds of private MDs use essential oils for medical situations, mainly infection (infectious ではないかな?-高山)diseases, with great success.
つまり、病院よりも市井の開業医などが私的にアロマテラピーを行っていること、病院でもいくつか、このテラピーを行っているといころはあるものの、主たる治療ではなく、あくまで患者の気分をよくするサイド療法として行っていること、そして、病院ではなく、プライベートにアロマテラピーを実践している数百名の医師たちは、精油類を感染症に使用して、大きな成功を収めている、というわけである。
 
すると、いくつも疑問が生じる。
 
まず、第一に、フランスの薬局方では、精油の使用を認めているのかということ。
 
民間医療は、各人が自分の責任で家族に施してもよいだろう(しかし、公的な病院を受診しなければならぬ疾病まで家族だからという理由で自己流の療法を施し、その結果重大な結果を生じさせたら、刑事責任が問われるはずである)。
 
つぎに、薬局方で精油の使用が認可されているなら、その精油はどんな基準を満たしているのかということ。(そんな医薬品グレードの精油が本当に存在するのか? どんなメーカーがどんな基準に従って作ったものか? AFNOR規格などの基準を満たしたといっても、それが医療品グレードということとは、全く別のことだ。この規格はいくつかのマーカー成分の存在と分量を確認するだけのものに過ぎない)。
 
精油のように、年々歳々その構成成分が変化するような不安定なものを、誰が、どんな根拠で、「薬剤」としてフランス全土の病院・医院で利用するのを許しているのか。
 
そんなことで、医師は責任ある治療ができるのか。日本だったら絶対に考えられないことだ。そこをぜひ問いたい。そもそも、そんな完璧な医薬品グレードの精油が作れる会社がもしあったら、世界中のアロマテラピー関係者は、それしか用いなくなるだろう。
 
だいたい、ジェネリック医薬品すら、それでは責任をもって治療にあたれないという医師も日本にはたくさんいる。フランスでは、そんな初歩的なことも医師は考えないのか。
 
中医学(中国伝統医学。しかし、漢方医学は中国伝統医学から枝分かれした別物となっている)やアロマテラピーなどは、いまの公的に是認されている現代医学とは根本的に異なった医療哲学のうえに成り立っている。その方針で治療にあたるというなら、筋が通っている。
 
だが、何でもかんでも効けばいいのだろうという考え方は危険だ。
漢方製剤(元来は中国伝統医学の処方)を販売している某大手会社のように、漢方製剤を用いるなら、本来は中国伝統医学理論に基づいて患者にそれを投与しなければならない。
 
それなのに、その製薬会社は、中国伝統医学から生まれた漢方製剤の使用にあたり医師たちにその理論を一切説かなかった(いまはどうなっているのか知らないが)。そのために、多くの死者を出す事態を招いた。患者の中には小柴胡湯エキスにより間質性肺炎という病気で死亡するものが続出したのである。この事件とは関係ないが、あの美空ひばりもこの間質性肺炎で亡くなっている。
 
三流週刊誌(私は週刊誌はすべて三流と考えている)は、「漢方薬に副作用がないという神話が崩れた!」と、騒いだ。
 
バカ記者の無知はいまさら救いようがない。それはどうでもよいが、フランスで、そんなに無原則的にアロマテラピーを現代医学に併用しているとすれば、フランスは現代医学を実践している国々のなかで、もっとも遅れていると言わざるを得ない。
 
英国の医師で「自分はアロマテラピーを行っている」などという人間は皆無だ。英国の医師は賢明だからだ。
 
フランスの薬局方で精油が認められているというなら、何の精油と何の精油か、そこを聞かせてもらおう(まさか精油ならなんでもOK、そんなことはなかろう)。そして患者にその内服もさせるというなら、そのアロマテラピーで万一事故が発生した場合、その医師はどんな処分を受けるのか、逮捕され実刑を宣告されるのか? 医師免許を剥奪されるのか? そこまではっきり調べてからものを書くべきだろう。
 
アロマテラピーを、ただのファッショナブルなおしゃれとして、香水利用の延長線上で考えているような人間は、くだらぬ本など出すべきでない。多くの人を誤解させるもととなる犯罪的な行為だと私は断じる。反論があるならうけたまわろう。

2013年6月26日水曜日

変人奇人こそが新しいものを生む

ものごとを、ほかの多くの人とはちがった角度からみる人間を、世間では「変人・ 奇人」と呼ぶ。

私は、変人奇人が大好きだ。

ガリレオ・ガリレイらが地動説を唱えたとき、ローマ教会の教皇や枢機卿などは、

 「なぜ、誰が見ても、太陽が地球のまわりを回っているのに、教会の教えに背いて、地球が太陽のまわりを回っているなどとへそ曲がりの説をいいふらすのだろう。
この男は無神論者のような、許されざる大悪人ではなさそうだが、度しがたい変人だ、奇人だ」 

として、ガリレイを宗教裁判にかけ、むりやり「もう、こんな説は唱えません」と教会側があらかじめ書いておいた文書に強引に署名させた。

1633年のことである。

その後、9年もの間、彼は軟禁された。そしてガリレイはそのまま死んだ。

それから三百数十年後、ローマ教皇ヨハネ=パウロ二世は、「あのときは、どうも申し訳ありませんでした」と、この宗教裁判の判決を全面的に撤回した。

足利事件の菅谷さんどころではない。

しかし、この偉大な変人・奇人が科学をどれほど進歩させたか、いまさらいうまでもあるまい。

ガリレイより1世紀ほど前の芸術家(といっておこう)のレオナルド・ダ・ビンチも、これまた大変人・大奇人だ。

高齢の老人が穏やかに死を迎えようとしていたとき、レオナルドは、老人とじっくり話を交わし、その精神のありようを確かめた。

そして、目の前でその老人が死んだとたん、すぐさまメスをとって老人を解剖し、まだぬくもりの残っている遺体を仔細に検査し、こうも穏やかな最期を迎えた人間の心と体との秘密を懸命にさぐろうとした。

レオナルドは、医学にさしたる貢献をしたわけではないが、人間をほかの誰よりも具体的に、みつめたその成果は、さまざまな比類のない芸術作品の形で結晶した。

レオナルドは、いろいろな宮廷に仕えて、王侯貴族を楽しませる「イベント」屋だった。

それがむしろ彼の本業で、芸術家というのはレオナルドの一面にすぎない。彼は弦楽器や木管楽器の名演奏者でもあった。

彼の遺稿(大半は散逸してしまったが)を読んでいると、ひょっとしたら、レオナルドもひそかに地動説を支持していたのではないかと思わせる部分さえある。これを変人奇人といわずして何と呼んだらよいだろう。

アロマテラピーの祖、ルネ=モーリス・ガットフォセは、香料化学者で調香師(ネ)だった。

しかし、ルネ=モーリスは偉大さの点では前二者には到底及ばないものの、ひどく好奇心の強い男だった。変人奇人だった。

雑誌を創刊して、香水のレシピを次々に発表したり、ギリシャ以来の史観、つまり人間の歴史は黄金・銀・銅・鉄の4時代からなり、黄金時代は、幸福と平和に満ちた時期だったとする考え方を復活させ、現在は「鉄」の時代だとして、黄金時代に戻ろうという願望を、エッセーや小説などの形式で世の人々に伝えようとしたりした。

かと思うと、かつてローマに支配されてガリアと呼ばれていた、古い時代のフランスの考古学的研究をしたり、失われた大陸アトランティスのことに熱中したりした。

しかし、会社の本業も怠らず、販売する品目を400点ぐらいにまで拡大している。

彼は第一次大戦で戦死した2人の兄弟に、一種の贖罪をしなければならないという気持ちが生涯あったようだ。

1937年にルネ=モーリスは、AROMATHERAPIEという本を出版して、この新たな自然療法を世に問うた。

しかし、時、利あらず、戦雲たちこめるヨーロッパでは、サルファ剤、抗生物質剤ペニシリンによる治療ばかりに人びとの注目が集まり、マルグリット・モーリーのようなこれまた変人を除いて、ほとんど誰もこの新しい療法に注目する人はいなかった。

むろん、例外的に、この療法を獣医学に応用しようとした人もいた。イタリアにも、この新療法にインスパイアされた学者、例えばガッティーやカヨラ、ロヴェスティーなど何人かでた。

しかし、はっきり言ってしまえば、アロマテラピーは事実上黙殺されたのである。1937年以降、ルネ=モーリス自身は、医療技術としてのアロマテラピーを発展させようという意欲をかなり失ってしまったようだ。

以後、彼はコスメトロジーのほうに軸足を移した。

ドゥース・フランス(うまし国フランス)が、ドイツに踏みにじられても、たぶん、ルネ=モーリスは、わが藤原定家のように、

「紅旗征戎(こうきせいじゅう)わが事にあらず」

と、定家とは異なった一種の絶望感とともに、現実をうけとめていたように思われる。

もはや、「黄金」時代にこそふさわしいアロマテラピーは、彼の心を少しずつ去りつつあったのではないか。マルグリット・モーリーは、ルネ=モーリスの弟子だったなどというのはヨタ話もいいところだ。

この二人は会ったことすらないのだから。しかし、マルグリットがガットフォセの着想を自分流に組み立て直して、それを自分のコスメトロジーに組み入れていなければ、そしてまた、第二次大戦中に何かの折にルネ=モーリスの本をのちのジャン・バルネ博士(マルグリット・モーリーが博士の弟子だったというのもヨタ話だ)が読んで、その内容を頭の片隅にとどめていなければ、今日、私たちがアロマテラピーなどという療法をあれこれ考えることもなかったはずだ。

ルネ=モーリス・ガットフォセは、1950年にモロッコのカサブランカで亡くなった。

2013年6月25日火曜日

新しいアロマテラピーを目指して

五月に刊行し、発売停止という、出版物としては稀な目に遭遇した私の著書、『誰も言わなかったアロマテラピーの《本質(エッセンス)》 のその後について、ご報告しよう。

私は28年ほど前に、アロマテラピーを日本にはじめて体系的に紹介し、人びとに外国で刊行されたアロマテラピーを研究して、それを人びとに教え、小型の蒸留器で精油の抽出をしたり、英仏をはじめ、米国・オーストラリア・スイス・ドイツを訪れて、精油の原料植物を手にとって調べたり、外国で各国の研究者たちに、英語で自分の研究成果を発表したりしつづけてきた。

私は、本に印刷されたことを読んで、それをすべて真実だと信じ込む幼稚園児クラスの頭の持ち主ではない(おっと、これは幼稚園のこどもたちに失礼なことを言ってしまった)。

私は、ときには、日本だけでなく、諸外国の研究者たちのさまざまな立場から書かれた文献を熟読し、それぞれが信じるにたりるものであるかをあらゆる角度から丹念に検討し、可能な場合には外国の研究者に、じかに面会して、諸問題をできるかぎりつまびらかにする作業に明け暮れた。稼いだ金もすべて研究に費やした。

私は、外国の書籍を翻訳する際には、原則として、その原著者に直接面会して、さまざまに質問して、疑問を氷解させた。私の質問に、原著者が「これはまずいですねえ」といって、原書の文章を私の目の前で書き直したことも何度となくあった。そうした事情を知らぬ読者のなかには、「ここは訳者が誤訳している!」と、鬼の首でもとったように思ったかたもいただろう。

直接、原著者に面会して、ろくにものも知らぬ通訳などを介さずにお互いの意思を通わせるほど、相手の真の姿に接近するよい方法はない。アロマテラピーの専門家と称して、自分の知識を派手にひけらかしている人物が、あってみると、あらゆる意味で薄っぺらな人間だとわかったことも再三あった。英国のアロマテラピーの元祖といわれる男も好例だ。

一言でいうのは困難だが、相手と話を重ねて、その相手と「心の波長」を合わせるのだ。
すると、その人間自身も気づかぬ「何か」が読めてくるのである。
これがまた面白い。アロマテラピーとは直接関係ないことなのだが。

さて、私の著書『誰も言わなかったアロマテラピーの《本質(エッセンス)》』 を、あるアロマセラピストらしき女性が批評して、「この著者はアロマテラピーを勉強したらしいが云々」といっているのを読んで、私は思わず吹き出した。

ねえ、あなた。私がいなければ、今日のあなたも存在しないのですよ。そのことがまだおわかりになりませんか。もうよそう。「バカとけんかするな。傍目(はため)には、どちらもバカに見える」というから。

この本をめぐっての話は、前にしたとおりだから省く。

でも、さまざまな圧力に堪え、私の原稿を製本までしてくださった出版社の社長の勇気と信念には本当に感謝している。妨害と闘いつつ、アマゾンと楽天でこの書物を社長に販売していただいたおかげで、北海道からも沖縄からも、全国的に声援が送られてきた。各地から招かれもしている。本にかけなかったことを、日本全国で存分にぶちまけるつもりだ。

やはり、いまの日本のアロマテラピー界のありようには、おかしなところがある。変な部分がある。資格商売で、公共の利益をうたう法人でありながら、許されないはずの金儲けを大っぴらにしている協会がある。自分の使っている精油はインチキではないか、などと疑いはじめた人が、いま、全国的にひろがっている。

協会や精油会社などで既得の利益収奪権を必死に守ろうとしている連中が、ほうっておいてもどうということもない、私のささやかな著書を圧殺し、断裁しようとして血相を変えているのも考えればすぐその理由がわかる。

アロマテラピーを真剣に、まじめに学ぼうとしている全国の方々に呼びかける。
「あなたの財布だけを狙う、インチキ協会に、インチキ精油会社に、インチキアロマテラピースクールにだまされるな!」と。

日本で、いちばん早くから、いちばん深くアロマテラピーを究めてきた私だ。その私が、いま、はっきりいおう。いまのアロマテラピーの世界には、変なところ、怪しいところ、狂ったところがある。

ルネ=モーリス・ガットフォセの唱えた最初のアロマテラピーの、マルグリット・モーリーの唱道したエステティックアロマテラピーの、そして、ジャン・バルネ博士の植物医学的アロマテラピーのそれぞれの哲学を、今こそ見直すべきだ。

日本○○協会セラピストの資格をとるための、くだらぬ受験参考書などは捨てよう! 私たちは、もっともっと別に学ぶべきことがある。

それをしっかり念頭において、アロマテラピーをみんなで力をあわせてフレッシュなものに生まれ変わらせよう!

2013年6月19日水曜日

沖縄より~高山林太郎が語るアロマテラピーヒストリーPR


週刊ジャン・バルネ博士の芳香療法を行っております坂元健吾です。

先日、お知らせいたしました高山林太郎先生のポッドキャスト番組を
開始いたしました。

「高山林太郎が語るアロマテラピーヒストリー」です。
私が書いているブログにて、番組紹介をしております。
http://meetsnature.ti-da.net/e4913509.html

***

ぜひ聞いてください。(坂元さんより)

リンゴにまつわる話3

リンゴ園農家の主人は、「犯人」がまさか村の名士の校長先生とは知らなかった。あんな大声など出すのではなかった、とホゾをかむ思いだったが、もう遅かった。

校長先生のゆかたの帯はほどけてしまい、汚れたフンドシがむき出しになっていた。事情を知った人の良い駐在巡査は、青年たちに「先生をお宅にお連れしろ」と命じた。

事件にするようなことではないと考えたからだ。あたりには、リンゴのさわやかな香りが一面に漂っていた。

青年が二人で校長先生を両脇からかかえあげた。力がぬけてしまっていたせいで、先生はやせていたのに、妙に重かった。青年たちは、まるで先生をひきずるように、先生を抱えて歩いて行った。

巡査も心配してうしろからついていった。リンゴ園の主人も、みんなから離れるわけにいかず、一緒にいた。

一行は村を二つにわけている線路にさしかかった。踏切は少し高いところにあった。
そのとき、力が抜けていた校長先生が、どこにそんな力が残っていたかと思われる勢いで青年たちをふりきって、踏切に駆け上がった。

そして、汚らしいフンドシからしなびた陰嚢をひっぱりだし、それをペタリと線路の上にのせ、線路のまわりに転がっている石を片手に握りしめ、それで陰嚢を叩き潰そうとした。

死のうとしたのである。

青年たちは「先生、やめてください!」 と叫びながら、一人は校長先生の手をつかまえ、もう一人は先生を羽交い絞めにしておさえた。

やがて、フラリと立ち上がった先生は、ゆかたの前はすっかりあいたまま、フンドシからは貧弱な陰茎としなびた陰嚢とをすっかり露出したまま、「おーんおんおん」と泣き出した。

やがて一行は、先生の家についた。何事かと驚く奥さんに、駐在巡査はことの次第を話した。ことばを選んで、奥さんを不必要に刺激しないように気を配ったことはいうまでもない。

校長先生はもう泣き止み、畳の上でくたっとしていた。一行の一人が、この陰うつな気分を少しでも変えようと、その年の稲作の見通しなどを口にしたりした。

ふと気が付くと、校長先生の姿がない。

先生があまり静かにしていたので、みんな気が付かなかったのだ。

先生は隣室で、あの汚らしいフンドシを高いところにくくりつけ、それで首を吊っていた。

みんなは急いで先生をふとんに寝かせ、すぐに診療所の医者を呼んだ。医者は先生の瞳孔を見たり、脈をとったりしたが、暗い顔で頭を横に振った。先生は亡くなっていた。

一同は、何かたまらない気持ちで、呆(ほう)けたようになっている奥さんにお悔やみを言った。

巡査も制帽を脱いでかしこまり、奥さんに悔みをのべ、リンゴ園の主人も同じようにした。奥さんは、あいさつを返す気力も失せていた。

***

そのあと、校長先生の未亡人とこどもたちはどうなったか、幼い私にはわからなかった。
ただ、こどもながら、何ともやりきれない気持ちになった。暗い夜空にむかって叫び出したいような気分になった。

私はリンゴは好きだが、その香りをかいだり、食べたりするたびに、この悲しい事件を思い出さないではいられない。

リンゴにまつわる話2

と、耳敏いリンゴ園の主人が、「コラーッ」と、どなって家から飛び出してきた。

近くの家々の青年たちが、リンゴ園の主人の大声を聞きつけて、家から何人か出てきた。
リンゴ園の主人は、てっきり村の悪童どもがリンゴを盗みに来たのかと思ったのだった。だが、主人が見たのは、ヘタヘタと地面にへたりこんでしまった、村の名士の校長先生だった。

その懐からは、リンゴが数個、コロコロと転がり出した。先生は、もう腰がぬけてしまっていた。

無理もない。戦争中は文部省に命じられるまま、懸命に毎日、児童たちに「神州不滅、大日本帝国万歳」と叫びつづけてきた校長先生、それがだしぬけに敗戦を迎え、訳も分からぬまま「民主主義」とやらを占領軍におしつけられ、「カリキュラム」だの「ガイダンス」だのと聞いたこともない異国語の教育方針できりきりまいさせられ、そのうえ、恐ろしい空腹でもう半分正気を失っていた校長先生だ。

「体をじょうぶにしよう(ムリにきまっているのに)」

とか

「他人のものを盗んだりしないように」

とかといったことしか教えるのが精いっぱいだったおとなしい校長先生である。その先生が、飢えの極みからとはいえ、こどものためとはいえ、他人のものを盗み、人びとにみつかってしまったのだ。

折悪しく、村の駐在巡査も近くにいて、先生をとりかこんでいる村人に加わった。

校長先生は、いままで自分が築き上げてきた世界が、そして何よりも自分自身がガラガラと音を立てて崩れるのを骨の髄から感じたに違いない。

リンゴにまつわる話3につづき

リンゴにまつわる話1

香り・匂いをコトバで直截(ちょくせつ)に表現するのは、原理的に不可能である。

「鼻にツンとくる酢のような匂い」

「腐った卵のような悪臭」

「魚のハラワタが腐敗したようなむっとくるいやな匂い」

「青葉若葉のむせ返るような匂い」

「青リンゴを食べた時の風味を思わせる匂い」

などと、たとえをもちだして人に想像させるしかない。
青リンゴはこうした例によく持ち出される。

***

スーパーマーケットなどにリンゴが並ぶ頃になると、私はそのさわやかな香りを嗅いで何とも言いようのない悲しい思い出がうかんでくるのを、おしとどめることができない。

***

幼い私は、1943年に長野県北部の新潟県境に近い町に東京から空襲を避けて疎開していた。

小学校(当時は国民学校と呼んだ)2年のときに敗戦を迎えた。この頃のことはもう思い出したくないつらい記憶ばかりだ。

まず、食べるものがない。カボチャは実はもとより、葉も茎もツルまでも食べた。さつまいもも同様だった。雑草も、たいてい口にした。私が食べられる野草にやたら詳しくなったのも、このときの経験からだ。私はガリガリにやせ細って、目玉ばかりギョロつかせていた。
その町からかなり離れた村に、国民学校の分校があった。村の中央を一時間に一本ぐらいの割で通過する鉄道の線路が走っていて、これが村を二分していた。駐在所・診療所もあったが、淋しい村だった。

飢えていたのは、私のようなこどもばかりではない。米作農家の人間はべつとして、 おとなもほとんどみんな、腹をすかせていた。

長野県はリンゴの名産地の一つである。この寒村にもリンゴ園をもつ農家が一軒あった。嵐が吹き荒れた翌朝などには、まだ小さな青リンゴがかなり遠くまで吹き飛ばされてくる。村のこどもたちは争って、そのしぶく、まずい未熟なリンゴをひろって、大人にみつからぬようにコソコソ食う。

でも、こどもにとっては、何よりもおいしいものだった。
ウメの実同然、バラ科の未熟果は有毒だ。だがそんなことを気にするものはいなかった。

リンゴが熟しかけると、一つ一つの果実に紙袋をかける。その紙袋をかける直前のことだったか直後のことだったかわからない。その村の分校の校長先生が、ある夜、格別の用もないのに浴衣姿でふらふらと家をでた。

自分自身の空腹は樹の皮をかじっても、水を飲むだけでも、何とかガマンできる。

しかし、先生には4人も子供がいて
「おなかがすいたよう」と泣く。その声を聞くのがつらくて、先生は家をあとにしたのだった。

先生の月給は1300円ぐらい。米一升(1.8リットル)は380円程度だった。これで、一家六人が一ヶ月くいつなぐのは大変だった。

先生はリンゴ園のそばを通りがかった。空きっ腹で、泣いているこどもたちのことを考えずにいられなかった先生は、道にむかって「とってください」といわんばかりに枝を伸ばしているリンゴの枝から思わず2個か3個のリンゴをもぎ取って懐に入れてしまった。

しんと静まり返った村である。 校長先生がリンゴを枝からもぎ取る音が、バカに大きくあたりに響いた。

リンゴにまつわる話2 に続きます)


2013年6月18日火曜日

正しく表現することの重要さ

何であれ、ものごとは、できるだけ正確に把握し、理解し、それを表現しなければ、あとあとまで人びとを誤解させてしまう原因になる。

私は前述した著書のなかで、ルネ=モーリス・ガットフォセが「アロマテラピー」を着想するキッカケとなった「火傷事件」の真相を詳しく述べた。

このこと自体は、さほど重要なことではない。しかし、この事件すら正しく知らない人間が、アロマテラピーを的確に把握しているとは信じられないので、この事件について、関係者からできるだけ詳細にその真相を問いただした次第だ。

私の学んだ大学は、外国文学や外国語にウエイトをおいて勉強した。
それをもとに、私たち学生は、原文で世界の名作を厳密に読み、文学にせよ、哲学にせよ、名訳として通用しているものがいかに誤訳だらけかを思い知らされた。

また、人名の発音も、インチキが多いこともわかった。

たとえば、大デュマの傑作の『モンテ・クリスト伯』の主人公のダンテスの不倶戴天の仇の一人、Morcerf伯(かつてのフェルナン・モンデゴ)は、「モルセルフ」と発音すべきなのだが、どの本も岩波文庫の山内義雄訳を踏襲しているため、「モルセール」という誤った発音がまかり通ってしまった。

ものごとは可能な限りに正確に表現すべきだということは、私は経済学の先生から教わった。
私たちは、お金を出し合い、大学当局にかけあって教室を確保し、他大学の有名な経済学の教授にお願いしてプライベートな講義をしていただいた。

先生は厳密かつ、科学的に経済学用語を使うことの大切さをじっくり説かれた。
ひとしきり話がすんだところで、先生は突然、

「私は、大便をしたいのですが」

といわれた。
私たちは誰ひとり笑うものなどなく、

「先生、ダイベンでございますね。ショウベンではございませんね」

ときっちり、先生に確認して、便所にお連れした。化粧室だの手洗いだのというあいまいな表現はいけないということを、先生は身をもって示されたのだ。

「言行一致」とはまさにこのことである。

私たちは、みな粛然としていた。

先生の大便は時間がかかった。長かったなどというと誤解を生じかねない。

翻訳をなりわいの一部にするようになった私は、言語表現自体としては問題があろうとも、原著者の心を心として、その考えを力の及ぶかぎり正しく読者に伝えることに心血を注いだ。

「文字は殺し、精神は生かす」ということばがある。それを体しつつ、「大便はダイベンなり」をモットーとして、私はさまざまな言語と分野との翻訳に努めてきたし、これからもそうしていくつもりである。

2013年6月17日月曜日

アロマテラピーの本質について

私は、本年5月に『誰も言わなかったアロマテラピーの本質(エッセンス)』という本を出版した。
この本は、刊行されてすぐさま発売停止になった。
(なぜかアマゾンと楽天とでは販売された)

私はむしろ、その事態を嬉しく思った。どこの圧力か知らないが、言論の自由がある日本で、軍国主義時代の日本やナチズム下のドイツ、スターリニズムの圧制下にあったソ連のように、著書の存在を恐れる勢力によって、その発売を禁止されるというのは、私のような、たかが「アロマテラピー」についてのささやかな書物をものしたにすぎない人間にとっては、むしろたいへん名誉なことだと考えたからだ。

アマゾンや楽天などでこの本を買った人々には、10冊、20冊とまとめて購入する人が多かったと聞く。「幻の本になるから、いま1500円のこの書物は一冊一万円くらいになるだろう」といっていたとか。

そんなことは、私にはどうでもよい。それよりも原稿をじっくりと読み、校正を三回も丁寧に行って、目を通してくださり、製本を決意された出版社社長の悲憤の念はいかばかりか。

こんな不当な圧力に屈せざるを得なかった、同社社長の無念のお気持ちは察するに余りある。

また、アマゾンで運よくこの本を買われた方々は、みなこの書物(これでも削りに削られたのだ。某方面からの脅迫で)を高く評価してくださった。

だが、楽天で購入した人間のたった一件の「批判」は、「著者の思い込みが激しい。頭が固い云々」など、およそ批判の名に値しないものだった。

この方に申し上げる。

だいたい人間が怒ってものを言ったり書いたりするときは、何か自分に弱みがあるときだ。
それに、ご自分のそんな感想を羅列しても、私の所論自体の批判にまるきりなっていない。
もう少し論理的にものを考える習慣をつけられよ。
あなたの「批判」は、私に毛ほどの傷も与えない。

小学生でもこんなトンチンカンな理論は展開しまい。

小学校に入りなおすことを心からお勧めする、といっても、あまり効果は期待できないが。

2013年6月15日土曜日

女の香りの詩

Les cheveux(髪の毛)

Remy de GOURMONT (1858-1915) ルミ・ドゥ・グールモン

豊かな知識と、さまざまな趣味の持ち主で、フランス象徴主義文芸の推進者の一人、 ルミ・ドゥ・グールモンは、哲学・思想・文学に関する評論で有名な人物(1858~1915)。
詩人としても、新鮮な感性と官能性に裏打ちされた作品を残した。

この詩は、男からみた女の魅力の一面を鮮烈に描きだした、私にとって忘れられないフランス詩のひとつである。

***

Simone, il y a un grand mystère
Dans la forêt de tes cheveux.
(シモーヌよ、君の髪の毛の森のなかには
大きな謎が隠れている)

Tu sens le foin, tu sens la pierre
Où des bêtes se sont posées ;
(君は干し草の匂い、けものが身を置いたあとの
石の匂いがする)

Tu sens le cuir, tu sens le blé,
Quand il vient d'être vanné ;
(君は革の匂い、箕(み)でよりわけられたばかりの
小麦の匂いがする)

Tu sens le bois, tu sens le pain
Qu'on apporte le matin ;
(君は林の匂い、朝に運ばれてくる
パンの匂いがする)

Tu sens les fleurs qui ont poussé
Le long d'un mur abandonné ;
(君は打ち捨てられた壁に沿って
生えだした花々の匂いがする)

Tu sens la ronce, tu sens le lierre
Qui a été lavé par la pluie ;
(君は木苺の匂い、雨に洗われた
きづたの匂いがする)

Tu sens le jonc et la fougère
Qu'on fauche à la tombée de la nuit ;
(君は日の暮れ方に鎌でかられる
燈心草と羊歯[シダ]の匂いがする)

Tu sens la ronce, tu sens la mousse,
(君は柊[ヒイラギ]の匂い、苔の匂いがする)

Tu sens l'herbe mourante et rousse
(君は生垣のかげで次々と実を落とす)

Qui s'égrène à l'ombre des haies ;
(赤茶色に枯れかけた雑草の匂いがする)

Tu sens l'ortie et le genêt,
(君は蕁麻[イラクサ]とえにしだの匂いがする)

Tu sens le trèfle, tu sens le lait ;
(君はクローバーの匂い、ミルクの匂いがする)

Tu sens le fenouil et l'anis ;
(君は茴香[ウイキョウ、フェンネル]とアニスの匂いがする

Tu sens les noix, tu sens les fruits
Qui sont bien mûrs et que l'on cueille ;
(君はくるみの匂い、
熟れきって摘み取られる果物の匂いがする)

Tu sens le saule et le tilleul
Quand ils ont des fleurs plein les feuilles ;
(君は葉むら一杯に花をつけたときの柳と菩提樹の匂いがする)

Tu sens le miel, tu sens la vie
Qui se promène dans les prairies ;
(君は蜜の匂い、牧場の草原をさまよい歩くいのちの匂いがする)

Tu sens la terre et la rivière ;
(君は土と川の匂いがする)

Tu sens l'amour, tu sens le feu.
(君は愛の匂い、火の匂いがする)

Simone, il y a un grand mystère
(シモーヌよ、君の髪の毛の森のなかには、

Dans la forêt de tes cheveux.
大きな謎が隠れている)

***

そう、男性は女性の発する匂いには極めて敏感なのだ。安物の香水や、安っぽい香料などで香りづけしたヘア用品などとは即刻縁を切られたい。

それらはすべて、あなたの生来のセクシーで魅力的な匂いを消し、彼のあなたへの愛を徐々に殺していく恐ろしい敵なのだから。

2013年6月13日木曜日

アロマテラピーへの道

私は、この「語録」を通じて、自分が28年前に日本にはじめて体系的に導入したアロマテラピー(これを芳香療法と私は訳した)について、あれこれを思い浮かべるところの、吉田兼好流にいえば「よしなしごと」を、しかし、いまこのテラピーを学ぼうとする人びとに、いつか何らかの形で役立つと考えることを書き綴ってきた。

これからも、これを続けていく。

人は、私を「日本のアロマテラピーの父」などと呼んだりする。私は、そのつど、顔を赤くして、「とんでもない。私は植物と植物を用いた療法上で、フランスの『AROMATHERAPIE、アロマテラピー』 に遭遇したまでですよ」と、へどもど答える。

うまい受け答えなどとてもできない私である。

いわんや、これを商売に結びつけ、精油を売ったり、いかにも権威ありげな協会を作って会員を集め、その会員から大金をまきあげたりして、大儲けしようなどという意欲を持つ才能は、私には全く欠けている。

その点、マイナス的意味で、天才的といってもよいほどだ。

その絶対値はアインシュタイン以上だろう。

でも、一口にアロマテラピーを紹介するといっても、これは大しごとだ。もともとフランス語やフランス文学やフランス哲学などを勉強してきた私である。懸命になって、医学・薬学・生理学・化学・生化学そのほかの知識を頭に入れなくてはならない。日夜、寝食を忘れて努力に努力を重ねた。

チョモランマの頂上を極めた方々からすれば、せいぜい八ヶ岳に登った程度の私だろう。けれども、私には一種の使命感があった。

私の母は、クロラムフェニコールという抗生物質の副作用の造血機能不全で苦しんで死んだ。聞けば、二万人から三万人に一人、そうした副作用が出るのは、当局としては織り込み済みだったそうだ。

確かに三万人と一人とをはかりにかければ、 一人なんてネグリジブルな数字、統計上の数字だろう。けれど、私にとってはたった一人の母だ。こんな悲しみを人びとに与えぬ医学・薬学はないものか。

それがアロマテラピーへと私と突き進ませる原点となった。

2013年6月12日水曜日

妊娠とアロマテラピー

妊娠中にアロマテラピーをみずから行ったり、その施術をうけたりしても問題はないか、と不安を覚える女性は少なからずいる。

しかし、まず統計的原則を頭にいれて頂きたい。

いまここに、100組の若い男女のカップルがいるとすれば、そのうち1組は、生涯こどもをもつことはできない。

100人の妊婦がいればそのうちの1人ないし2人はかならず流産する。

その大半は、胎児の遺伝子の異常に起因する。

100人の新生児がいれば、そのうちの最低1人はやがて統合失調症(精神分裂病、schizophrenia スキゾフレニア)になる運命にある。

つまり、私がいいたいのは、妊婦の一部はアロマテラピーを行っているとかどうとかということは「全く無関係に」必然的に流産するという事実が存在するということだ。

いろいろな本には、妊娠時に避けるべき精油は、アニス、バジル、クラリセージ、サイプレス、ペパーミント、バラ、ローズマリー、ジュニパー、etc.と書いてあるが、マウスなどの実験動物を対象にして、通常の人間が用いる量に換算すれば、100倍もの精油を腹腔注入したりして得られた結果など、ナンセンスに等しい。

妊娠中は、芳香浴し、芳香の蒸気を吸入して、気分を和らげることが、むしろ望ましい。
ある女性は「流産がこわくて庭のハーブにも近づけない」などと嘆いていた。

ハーブや精油などの力で流産する胎児は、ほかの原因でも容易に流産するはずだ。自然は、「これはしくじったな」と思ったら、胎児を流産させ、母体を守り、再度の妊娠に備えさせる。

用いる精油が天然の、それも十分に有効な成分をもつものであれば、平常どおりアロマテラピーを妊婦が行ってもよほど特殊な精油でもない限り、まず差し支えない。

なかには、妊娠中には絶対にアロマテラピーを行わないうえに、一切香水をつけないという女性もいる。そうすれば安心だというなら、そうして頂いて結構。

アロマテラピーは、人から強制されてするものではない。

求める人が自分からすすんで行うテラピーなのだから。

2013年6月11日火曜日

花の香りを連想させる詩③

Les Roses de Saadi サーディーの薔薇

MARCELINE DESBORDES-VALMORE(マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモール)

題名の「サーディー」というのは、13世紀のイスラム教世界(ペルシャ)の大詩人で、野蛮なヨーロッパでも有名になった人物。

この詩は18~19世紀のフランスの女流詩人、デボルド・ヴァルモールが、このペルシャの大詩人の詩集の序文に想いを得て書いたもの。

デボルド・ヴァルモールは、歌手、女優として、一生を赤貧と人生苦とのうちにすごした。
しかし、その作品の深い感情と韻律の美しさは、後世の詩人たちを心から感動させた。


J'ai voulu ce matin te rapporter des roses
(けさ、あなたに薔薇をお届けしようと思い立ちました)

Mais j'en avais tant pris dans mes ceintures closes
(けれども、結んだ帯に摘んだ花をあまりたくさん挟んだため)

Que les nœuds trop serrés n'ont pu les contenir
(結び目は張り詰め、もう支えきれなくなりました)

Les nœuds ont éclaté. Les roses envolées
(結び目は、はじけました。薔薇は風に舞い散り)

Dans le vent, à la mer s'en sont toutes allées.
(ひとつ残らず、海に向かって飛び去りました)

Elles sont suivi l'eau pour ne plus revenir
(潮のまにまに運ばれて、はや二度と帰っては参りません)


La vague en a paru rouge et comme enflammée
(波は花々で赤く、燃え立つように見えました)

Ce soir, ma robe encore en est toute embaumée...
(今宵もまだ、私の服はその薔薇の香りに満ちています)

Respires-en sur moi l'odorant souvenir
(吸って下さい、私の身から、その花々の芳しいなごりを)

(入江康夫氏訳)


なんという美しい名だろう。マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモール。
そして、行間から香りが匂い立つかと疑われる、美しいバラとその芳香とのイメージ。

私は学生のころ、フランスの名詩を美しく朗唱することに同級生たちと夢中で打ち込んだことを懐かしく思い出す。

ボードレール、ヴェルレーヌ、そしてとりわけこの、 デボルド=ヴァルモールの詩を。
女性ならではの官能性に満ちたこの陶酔させる詩を。

「ヒッピー」とティスランドたちのこと


ヒッピーは、1960年代、米英で主として白人中流家庭の青年が、いまのホームレスとは異なり、家をただ飛び出し、近代合理主義自体を哲学なしに否定して、折からのベトナム戦争に反対した連中だ。

私は、ヒッピーというものが、本当に現代の戦争で儲ける人間に、心底から反対し、また、黒人を人間として認めることを強く主張したなら、そして白色人種中心主義を否定したなら、ヒッピーをよしとしたろう。

しかし、彼らは黒人差別主義、世の貧富の格差を何とも思わなかった。彼らは現状を「何となく否定し、哲学が貧困なまま」、どう世の中を変革していくかを突き詰めて考えていなかった、小金持ちのお坊ちゃん、お嬢ちゃんなのである。
だからLSDなんていう高価なドラッグにふけって、一日中ブラブラしてられたのだ。

 ヒッピーに黒人はいない。このことに注意してほしい。
彼らは、食っていくのがやっとだったからだ。黒人歌手、ギターの鬼才、ジミ・ヘンドリックスは黒人だが、白人青年むけに白人たちの手で売り出された人間であり、彼はヒッピーではない。いわば、サル回しの芸達者なサル同然の黒人だった。

女性歌手、ジャニス・ジョプリンは、白人にちがいないが、どう現状を変えていけばよいのかわからなかった。ジミ・ヘンドリックスは黒人たちからは黒人を裏切り、白人にへつらう裏切り者とされ、苦しんだ。彼は黒人公民権獲得運動もしていたのだが。当時は救急車も黒人だと搬送もしなかった。病院も黒人をうけいれなかった。

多くのヒッピーは、ベトナム戦争が米国の敗北に終ると、旧態のままの社会体制、社会通念の世界に戻ってしまった。IT技術に関連して大儲けした人間もいたし、ビートルズのように歌手として大金持ちになったものもいた。

白人のジャニス・ジョプリンは、現状に反抗するすべを知らぬまま、ヘロインで現実から逃避し、結果として自殺同様に、27歳で死んだ。

ジミ・ヘンドリックスはヒッピーにすらなれぬまま、やはり薬物死した。同じく27歳だった。
この2人は舞台でのパフォーマンス以外には反抗のすべを見いだせぬまま、ヒッピー的人生を最後まで全うして「筋を通した」人間だった。

しかし、ロバート・ティスランドやその妻マギーたちは、たんなる流行に乗って自然医学をかじるヒッピーにすぎなかった。そして、流行の終りとともに、その運動の本質もケロリと忘れて俗物になり果てて、アロマテラピーで一儲けした。「地金がでた」というべきだろう。

花の香りを連想させる詩②

前回の杜牧(とぼく)と同じ晩唐9世紀の詩人、高駢(こうべん)の『山亭夏日(さんていかじつ)』も、私の好きな詩だ。夏の山荘における暑さのなかで、バラの香りとともに、一抹の清涼感を覚えたときのこと。

緑樹陰濃 夏日長 りょくじゅ かげこまやかにして かじつながし
楼台倒影 入池塘 ろうだい かげをさかしまにして ちとうにいる
水晶簾動 微風起 すいしょうれんうごいて びふうおこる
一架薔薇 満院香 いっかのしょうび まんいん かんばし

《通釈》
緑の樹は、陰もこまやかにこんもり茂り
夏の一日はのんびり長い

山荘の建物は影をさかさまにして
静かな池の水面に映っている

水晶をはめたすだれがすこし動いて
少しそよ風があるようだ

その微風で棚いっぱいにおいたバラの香りが
庭中にさわやかに満ち満ちた・・・

「一架の薔薇」は「満架の薔薇」と同じ。
「一」と「満」が同じというのは変かもしれないが、「一面の菜の花」「満面の笑み」ということを想起して頂きたい。

楼台(ろうだい)は、高殿の意味。この詩は「七言絶句(しちごんぜっく)」という形式で詠まれたもので、言外に山の静けさがうかがわれ、詩人が思わずバラの香りに酔うさまを思い浮かばせる。
この詩人はその後、悲劇的な最期を迎えるのだが、未来のことが判らないところに人間の幸せがあるのだろう。

次回は、趣を変えてフランスの香りの詩をご紹介したい。

2013年6月10日月曜日

花の香りを連想させる詩①

花の香りを連想させる詩①

アロマテラピーの世界の問題を云々するよりも、花の香りを詩の世界で嗅ぎたくなった。
9世紀晩唐の詩人、杜牧(とぼく)の詩からはじめよう。


清明時節 雨紛紛(せいめいのじせつ あめふんぷん)
路上行人 欲断魂(ろじょうのこうじん こんをたたんとす)

借問酒家 何処有(しゃもんす しゅかいずこにかある)
牧童遥指 杏花村(ぼくどうはるかにさす きょうかのそん)

《通釈》
清明(四月)の頃に、雨はしとしと降る
旅路を行く私はひとり、春の愁いに耐えられぬ思いに包まれる
なあ、聞くが、酒屋はどこにあるのかい
そう家畜を追う少年に尋ねると、少年は黙ったまま、
 遥か遠くの杏の花に包まれた村を指した

―――――――――

(高山)
人生の行路を、ひとりそぼ降る雨のもとを歩む私も、杏の花の香りに包まれながら、一杯やりたくなっちゃった。

2013年6月7日金曜日

可能な限り品質のよい精油が必要な理由

よく一般向けのアロマテラピー本を見ると、「フランスでは、医師がアロマテラピーを実践しており、街の薬屋でも精油を売っており、医師はアロマテラピーに従って処方をしている」などという、とんでもないヨタ話が多く載っている。

これはすべてウソである。

精油はフランスでは健康保険適用ではない。この事情は、英国でも同じである。

私の尊敬する先生、東野利夫先生(敗戦直前の九大での米兵の生体解剖事件にたちあい、その経験を『汚名』として発表して話題を呼んで、先年テレビにも出演した方だ)は、そんなデマ記事を信用なさって、渡仏し、「アロマテラピーやあい」とばかり、フランスで何人もの医師に会って、この自然療法のことを問うたが、誰ひとりとしてアロマテラピーを知っている医師に会うことができず、がっくりして帰ってきた、とおっしゃっていた。

現在、EBM(エビデンスに基づいた医学)ということがよくいわれる。evidence-based medicine は「根拠に基づく医療」ということで、つまり「眼前の患者の状態にしかじかの治療を適用してよいか否かを検討する行動指針に立脚して行う、医学・医術」の意である。

アロマテラピーも、現行の法律はさておき、かりにも「医療」を名乗るなら、できる限りこの要件を満たさなければならないとお考えかもしれないが、アロマテラピーの薬理理論からすれば、真の天然精油ならば精油の成分に年々の多少のブレがあっても、これを問題視しない。

現在、ジェネリック医薬品といわれ、厚労省の認可をうけている薬剤もプラスマイナス20%の、先発医薬品との差が許されている。だから、医師によっては後発医薬品、すなわちジェネリック医薬品を絶対に処方しない医師はたくさんいる。厚労省のチェックが甘すぎるというのだ。

しかし、天然自然の「薬剤」である精油にそれを厳しく求めるのは不可能だ。でも100%天然の精油、それも高圧をかけず高熱で成分をむやみに破壊しない精油を用いなくては、全く話にならない。

クライアントをリラックスさせる力すらない、そんなまがい物を「アロマテラピー用精油」などと気やすく呼んで欲しくない。

マルグリット・モーリーのこと その2

マルグリット・モーリー(1895~1968)は、世紀末のオーストリア、ウィーンで生まれた。

父親は羽振りのよい実業家で、ウィーンで活動していたクリムトら世紀末芸術家のスポンサーまでやっていたが、事業の失敗から自殺し、残された妻子は苦しい生活を強いられた。

しかしマルグリット(正式にはマルガレーテ・ケーニヒ)の偉いところは、父親のように人生を投げ出さず、苦しいい生活を送りながら、懸命に医学の勉強をし、外科医の助手になった。これは当時の女性のつける最高の職種だった。

話は前後するが、父を失ったマルグリットは10代で結婚し、こどもも生まれた。

しかし、第一次大戦で夫は戦死し、こどもも幼くして亡くなってしまった。マルグリットは、その児の写真を生涯肌身離さなかったという。ちょっと泣かせる。

こんな辛い境遇にありながら、必死で難しい医学の勉学に打ち込んだマルグリットは偉かった。女性としての辛さと戦い、女性のハンデを逆手にとって、医学的教養をもつエステティシャンとして、再婚した夫のひたすらな援助のもと、コスメトロジーに新境地を開いた。今日のエステティシャンで、彼女ほど勉強し、技術を磨いた女性はいるだろうか。

とても男には真似できないしぶとさ (男は弱いからこそ、逆にいばってみせているのだ)ですよ。
ここではしなくも彼女はルネ=モーリス・ガットフォセの唱えた「アロマテラピー」なる自然療法を知ることになった。それからのことは、前述したので、今回は省略させていただく。思いついたらまた書く事にする。

2013年6月6日木曜日

アロマテラピーと偽科学

英国の結構有名なアロマセラピストたちも、ダウジング(dowsing)などということをやる。

ダウジングとは、本来、金属や木材などをL状にしたものを用いて、地中の水脈・鉱脈の存在を知る方法である。
 
アロマテラピーやハーバリズムなどでは、糸の先端におもりをつけ、これを行う人間は、決して手や指などに意識的に力を加えない。そして、「この精油は100%ピュアですか」とか「この病気にこのハーブは有効ですか」とかいった問いを発すると、その「振り子」が一定の動きを示し、その答えが得られるというもの。

O(オー)リングテストとかコックリさんとかと同じ原理のものと思えば良い。

そして、その通りというときには、振り子はたてに動き、ノーの場合には振り子が横にゆれるというようにあらかじめ決めておく。

すると、力も一切加えないのに、振り子がひとりでに動き出し、答えがえられるというのである。

しかし、これは偽科学と断じて差し支えない。

手・指は静止しているようでも、常にわずかに動いている。そして、頭のなかですでにできあがっている「答え」によって、その動きは拡大していく。科学的にかんたんに説明がつく。
こんなものを信じるのは愚かなことだ。

フランスのハーバリスト、モーリス・メッセゲも大まじめでこれをやる。
私が彼に幻滅した一因もそこにある。
こうした能力を持つ人間をフランスでは「radiesthésiste:ラジエステジスト、放射感知士」と称している。彼はこの国家資格を持っているそうだ。
ところが、彼が有機農法で作ったと称するものを私が日本食品分析センターで調べたところ、残留農薬が出てくるわ出てくるわ…

いつも、繰り返すが、こんな偽科学や、ホメオパシーやバッチフラワーレメディーズなどのようなプラシーボ効果しか期待できないものをアロマテラピーに結び付けないで欲しい。アロマテラピーへの人びとの信頼を落とすばかりだからだ。

マルグリット・モーリーのこと

この女性を誤解している人は多い。

マルグリット・モーリーは、ルネ=モーリス・ガットフォセの弟子だったなどという人間がいるが、この2人は師弟関係をもったことはおろか、一度も会ったことがない。
マルグリットの再婚相手のモーリーは、生涯、彼女を愛し、崇拝して、マルグリットを陰で支え続けた。

マルグリットは、芸術マニアの父の血を引いていたのか、芸術的感覚に富んでいて、1937年に刊行されたガットフォセのAROMATHERAPIEを熟読し、独自の芸術的感覚と夫モーリーから受けたホメオパシーの知識とともに、マルグリット独自のアロマテラピー理論を構築した。

彼女のエステティシャンとしての豊かな経験もそのベースになった。そして、20世紀初頭からヨーロッパの芸術家たちの支配的思潮だった「芸術の目的は、人を陶酔させることにある」という理念を、エステティックの世界で活かそうと考えた。精油をキャリアーオイルで稀釈して、これをクライアントにマッサージして、クライアントをエクスタシーの境地に誘うというのも、この考えに立ったものだ。

しかし、精油をごく薄くして用いる点には、明らかにホメオパシーを感じる。これがのちの英国のアロマセラピーの中心的な技術となった。

マルグリット・モーリーが、ジャン・バルネ博士の弟子だなどという輩がいるが、バルネは、彼女の名も存在も全く知らなかった。どこからこんな話がでたものか。

私としては、ガットフォセのアロマテラピーは、調香師的アロマテラピー、マルグリットは、エステティックアロマテラピー、バルネは医学的アロマテラピー(この名は誤解を呼びそうだが)とするのがよいと思う。

「ホリスティック」アロマテラピーなどという名称は、ただ英国アロマセラピーの権威付けのために考案されたにすぎないネーミングだ。

2013年6月5日水曜日

英国におけるアロマテラピーの歴史④ ロバート・ティスランド

ロバート・ティスランドが、マルグリット・モーリーのホメオパシー傾向を取り入れたのは、英国で(また20世紀初頭の米国でも)ホメオパシーがバカうけした例があったためだと思う。英国の王室でも、この療法を採用したと言われている。真偽のほどは定かではないが。
つまりホメオパシーファンが多い英国の土壌を利用したわけだ。
バッチのフラワーレメディーズなるものも、ホメオパシーから分岐したものである。

バッチ療法の本を読むと、このブランデーを15度くらいに水割りした液体中の薬効成分は霊妙なもので、アロマテラピー用精油のすぐそばにフラワーレメディーズを置くことは厳禁とある。そのデリケートな成分が、精油の強い芳香で分解してしまうためだという。

しかしロンドンでこの種の薬剤を売っている大手の「ネルソン」という店をはじめ、そうした専門店を5~6店回ってみたが、どこでも平気でバッチのレメディーズとアロマテラピー用の精油とを並べて売っていた。そばにホメオパシー薬剤もおいてある。

こうした店は「専門店」なんだろうから、私が読んだ本から得た初歩的な知識など知らぬはずはない。と、いうことはこうした店自身、バッチフラワーレメディーズの効力など頭から信じていないのだろう。これを論より証拠というのだ。でも、ロバートはバッチ博士の見解も、著書The Art of Aromatherapy のいたるところで援用している。博士がアロマテラピーに何かと都合の良いセリフをはいてくれているためである。

だから、繰り返すが、ロバート・ティスランド(ブレーンが何人もいるらしいが)が説くアロマテラピーは、科学的なものと非科学的なものとの「ごった煮」的テラピーといって差し支えない療法である。いま英国でのロバートのアロマテラピー事業の人気は落ち目の三度笠と聞く。
一貫した、恒久的説得力をもつ論理など、ヒッピーあがりにはブレーンを使っても所詮構築できなかったということか。だが、ことわっておく。私はロバートの精油が質の悪いものだなどとは口にしたことはない。そこは忘れないで欲しい。今のところ立証できないからだ。

2013年6月4日火曜日

続 ジャン・バルネ博士のこと②

バルネ博士のもとに、ある精油(エッセンス)生産者が手紙を寄せてきた。
博士はそれを著書で紹介している。

***

「専門家たちは自分が勧めたり売ったりしているものの純粋さを知ろうと思ったことがあるのでしょうか。精油を何かで「割る」ことは頻繁に行われています。 

良質のタイムのエッセンスは150フランはするのに、40フランのタイムのエッセンスがあったり、210フランは下らぬはずのクローブエッセンスが半額ぐらいで売られているのが何より証拠です 《中略》組成について何もわからない『割』ってあるエッセンスを使うことで生じるリスクを犯す権利が、専門家にあるのか。精油を扱う業者は、以前からいろいろなまぜものをする傾向があります。

香水業者、石鹸メーカーなどは安価に、よい香りの製品を売ることを重視するからです。しかし、ことアロマテラピーに関しては、値ははっても、絶対に高品質の製品を求めなくてはいけません」

***

ジャン・バルネ博士は、その意見の正しさに心から賛辞を呈し、その手紙の発信人に「私が心配していることも、まさに同じです」と返信した。

いま世界で生産されている精油(エッセンス)の9割以上は香水用、香料用だ。
アロマテラピー用に、注意深く安全につくられている精油は5~10%たらずなのが実情である。

精油がセラピストに、またそのトリートメントをうける人々にどんな影響を及ぼすか、もう一度、みなさんに考えていただきたい。

そしてことに、「アロマテラピー用」精油を販売する業者のかたがたの良心に、それをぜひ訴えたい。

英国におけるアロマテラピーの歴史③ ロバート・ティスランド

さあ、あわてたのは、それまで「ひっそりと」アロマテラピーをマルグリット・モーリーから教わっていたシャーリー・プライス、ミシュリーヌ・アルシエ、ダニエル・ライマン その他のアロマセラピストたち。

彼女らは、まったくどこの馬の骨ともしれぬヒッピーあがりの若い男に先を越されてしまったわけですからね。

「アタシたちこそ、英国アロマセラピーの先駆者よ!」っていうことで、大慌てでアロマセラピスト会議を開き、「我こそは本家本元なるぞ。将軍なるぞ(shogunと記事にあります)」と、肩をそびやかしあっていたとか。ともかく、ここで国際アロマセラピスト連盟(IFA)ができ、英国に6000人から7000人もの「アロマセラピスト」が突如として誕生し、「ロバートなんてあんなの若輩者よ」と言い立てました。

2013年6月3日月曜日

英国におけるアロマテラピーの歴史② ロバート・ティスランド


前回ヒッピーについて書きました。
今回は、ヒッピー達と英国におけるアロマテラピーの歴史の本題に入りましょう。

ロバート・ティスランド 

ヒッピー達のコミューンの一つに大して教養がないのに自然療法を自己流にナマかじりして、これにふけり、「研究」(笑っちゃう)するグループがありました。そこに、アロマテラピーを学んでいたロバート・ティスランドという青年がいました。彼は、ビートルズを真似て音楽をやっていてギターの演奏に凝ったこともありました。彼の学歴は、さっぱりわかりません。
同じコミューンの一員にマギー・ティスランド(旧姓は不詳)がいました。

たしか彼女は、ホメオパシー研究者を気取っていました。マギーは、ロバートのアロマテラピーに魅せられ、やがて二人は理(わり)ない仲になりました。どちらも家出をして社会通念をぶち壊したこの二人が、結婚などというヒッピーの彼らが否定していた行為(社会秩序・社会通念に則った行為)を行ったわけです。


後にこの二人は離婚しますが、マギー・ティスランドは、
「要するにあの頃の私は、不良だったのよ」と、
総括(笑)したのを私は本人から直接聞きました。

ジャン・バルネ博士の大著『アロマテラピー:~植物エッセンスによる疾病の治療~』は、ロバート・ティスランドがアロマテラピーをかじり始める4、5年前に早くも英訳されて英国に紹介されていましたが、当時これに注目する英国人はほとんどいませんでした。

 もとよりフランス語など読めも話せもしないロバートのことですから、彼はバルネ博士の英訳本を何かの折に見たのでしょう。ロバートは、これに何か閃くものがあったと思われます。彼は、「そうだこれだ!」と、乏しい脳漿を絞りに絞って仲間に散々知恵を借りてシャカリキに その書物(バルネ博士の英訳本)に取り組む姿が目に浮かぶようです。

そしてヒッピー運動の消滅とともにこのコミューンが、いわば流れ解散した後、俗物に成り果ててしまった(ヒッピーであったことが唯一の売りものだったのに)ロバートがこのアロマテラピーを英国に何とかして広め、精油を売る会社を自分で創って一儲けしようと考えたのは、十分にわかります。

まあ、無教養な人間としては、なかなかの男と言いたいところですが、私は少なくとも3人くらいで共謀したものと睨んでいます。

そして、ロバートの処女作『The Art of Aromatherapy,邦題:アロマテラピー:~芳香療法の理論と実際~』に19世紀~20世紀に流行ったキリスト教系新興宗教の断章、つまり、リバイ・ドーリングの『Aquarian Gospel、邦題:寶瓶宮福音書』はじめ、英国で注目され始めていた中国伝統医学に関する本を拾い読みし、ネタあさりをし、英国人に人気のある占星術や魔術などのオカルト的内容をアロマテラピーにことさらに結び付けようとしました。なにせハリー・ポッターにあんなに熱狂するお国柄ですからね。

このロバートの本を、彼らの精油商売のバイブル本にしたのです。

この原稿(ロバートの処女作)を受け取った出版社のC.W.Daniel社は、
「コイツは、10年がかりで売る本だろう」
と、考えて刊行に踏み切りました。

ところが、ロバートにとっても出版社にとってもまことに幸運なことが起こりました。
英国の幾つかの大手の大衆雑誌の編集者たちがロバートの著書を一読して、
 「こりゃ面白い本じゃないか!オレたちの雑誌で大きく取り上げて話題にしよう!」
と、言ってくれたのです。

そんなきっかけで、大半の読者が見たことも聞いたことも無かったおフランス発のアロマテラピー(英語で言うところのアロマセラピー)なる新しくユニークな自然療法を各雑誌が挙(こぞ)って取り上げました。するとこれが評判に評判を呼び、ロバート・ティスランドという誰も知らなかった男の初めてのアロマテラピー解説書(『The Art of Aromatherapy,邦題:アロマテラピー:~芳香療法の理論と実際~』)は、出版元もロバートも全く予期しなかったベストセラー本の仲間入りをしました。

こうして、ロバート・ティスランドは、一躍まるでアロマテラピーの元祖であるような扱いを人々から受けるようになりました。

2013年6月2日日曜日

英国におけるアロマテラピーの歴史① ヒッピーの出現

そもそも、英語ではアロマテラピーという発音ではなくアロマセラピーと発音する。

ヒッピーの出現

米国がベトナムの独立を圧殺しようとして在りもしない北ベトナムが米国の艦船を砲撃をしたというデタラメをでっち上げて大義なきベトナム戦争を開始した。
米国にとっては、事実上の侵略戦争であった。そこで、米国、英国、西ドイツのあまり教育・教養がない当時の若者たちは、この戦争に反対して様々な活動を展開した。その中で一番有名なのはヒッピーである。
このヒッピーたちは、ベトナム戦争に反対するだけでなく近代合理主義自体を否定して自然に帰れ というだけでごく根の浅い感情的運動を繰り広げました
これは、彼らが自分たちの主張をきちんと理論付けできない 将来の展望を切り開くだけの哲学のない連中だったからです。ヒッピーたちの生んだものとしては、大麻やドラッグ類(LSD; Lysergic acid diethylamide)などを吸飲してハイな精神状態で歌うロック音楽やサイケデリックな絵などが挙げられます。これらは、ひたすら感情をぶつけること で生み出されるモノです。
彼らの文化としていまも残っているのは、ジーンズ、Tシャツ、グループサウンズなどでしょう。

ヒッピーたちは、それぞれ20~30人 が集まってコミューンをつくる者が多くいまし た。このコミューンには、様々なものがあり、あるコミューンでは、メンバーが皆スッポンポンのヌード姿で過ごし、当然のごとく乱交していました。また、あ るコミューンでは皆がそろってロック音楽を作詞作曲してそれを演奏したり歌ったりしていました。この歌詞の陳腐なことと言ったら!
一例を挙げれば、ビートルズの「Let it be」というヒットソングがありますが、それよりもずーっと前に世界的にヒットしたドリス・デイの「Que sera sera」とどれほど違うものでしょうか。
また、あるコミューンでは、現代医学を否定して、中国伝統医学・ホメオパシー・ハーブ医学・マッサージ療法・アロマテラピーなどの自然療法を自己流にかじって耽ってみたりしました。
でも、これらヒッピーたちの産んだ文化を仔細に吟味すればその凡庸さに皆さんはお気づきになる筈です。
哲学がない彼らは、結局のところ今までの社会秩序・社会通念の世界に戻るしかなかったそのことがヒッピー文化に痛ましくも象徴的に表現されています。
また、彼らが今日のホームレスと決定的に違うのは、彼らには金があり、日がな一日、ドラッグなどにふけり、ブラブラしていられたところでしょう。

現代文化そのものが戦争などの悪の根源であるとして、これを完全否定した代表格のビートルズは、いまやトイレだけでも12もある大豪邸をもつタダの大金持ちの大俗物に成り下がってしまった(つまり、今までの社会秩序・社会通念の世界に戻る)ということがその当初から予見されていたといえましょう。 

2013年6月1日土曜日

ホメオパシーと支配星にまつわる話


バルネ博士のアロマテラピーは、特殊な形態をもつものであっても、やはり「植物療法」の一つとして、あくまで科学的な手法を用いて、その作用を追求し、効果を確認する科学的なものである。

これに反して、マルグリット・モーリーのアロマテラピーは、再婚相手のホメオパシー医のモーリーの影響で、どうもホメオパシー的な色合いが強い。 

そんなところに、バルネ博士の本をパクッたロバート・ティスランドが惚れ込んだらしい。
ロバートのアロマテラピーは、この両者の間をふらふら往来する奇妙な、科学的にみえたり非科学的に感じられたりする「ブレ」るアロマテラピーだ。

ホメオパシーは、少量を用いるから有益だが、大量だと有毒(ほかにもいろいろ理屈を並べるが、要はそういうこと)な物質を利用する自然療法と称する。

でもこれは、科学的うんぬんを論じる以前の日常的常識。たとえば食塩は生命の維持に不可欠だが、摂りすぎてはさまざまに体に害を及ぼす。水だって同じこと。ただの水でも大量に飲めば、胃の中の胃酸が薄まって消化不良をおこす。

しかも、有毒物を水にまぜて薄めたものが人体に有効だというが、その物質の分子が、計算上、1個も入っていなくても、その物質は「霊魂」化して有効性を失わないという。ここで、多くの人は、もうこれはオカルト的だ、ついていけないと考えるだろう。

ロバート・ティスランドは、これをアロマテラピーにあえて導入した。英国人の魔術・神秘愛好趣味を考えてのことだと思う。英国のハーバリスト、アロマセラピストは、人体や植物体などに一定の影響を有する「支配星」なんていうのを好んで持ち出す。そりゃ、太陽や月のような天体が地球に、生命体に影響するのは当然だが、地球からはるかに離れた金星・火星・木星・土星・さらには天王星が、人を選んで、植物体を選んで影響を及ぼすなど正気で考えられるだろうか。

そういえば、ある占星術師が自分の母は蟹座生まれだったせいで、ガンで死んだといっていた。(カニは英語でcancer、ガンの意味もある)ことを思い出す。蟹座生まれの人は、全員ガンで死ぬらしい。さあ大変だ。