2013年6月3日月曜日

英国におけるアロマテラピーの歴史② ロバート・ティスランド


前回ヒッピーについて書きました。
今回は、ヒッピー達と英国におけるアロマテラピーの歴史の本題に入りましょう。

ロバート・ティスランド 

ヒッピー達のコミューンの一つに大して教養がないのに自然療法を自己流にナマかじりして、これにふけり、「研究」(笑っちゃう)するグループがありました。そこに、アロマテラピーを学んでいたロバート・ティスランドという青年がいました。彼は、ビートルズを真似て音楽をやっていてギターの演奏に凝ったこともありました。彼の学歴は、さっぱりわかりません。
同じコミューンの一員にマギー・ティスランド(旧姓は不詳)がいました。

たしか彼女は、ホメオパシー研究者を気取っていました。マギーは、ロバートのアロマテラピーに魅せられ、やがて二人は理(わり)ない仲になりました。どちらも家出をして社会通念をぶち壊したこの二人が、結婚などというヒッピーの彼らが否定していた行為(社会秩序・社会通念に則った行為)を行ったわけです。


後にこの二人は離婚しますが、マギー・ティスランドは、
「要するにあの頃の私は、不良だったのよ」と、
総括(笑)したのを私は本人から直接聞きました。

ジャン・バルネ博士の大著『アロマテラピー:~植物エッセンスによる疾病の治療~』は、ロバート・ティスランドがアロマテラピーをかじり始める4、5年前に早くも英訳されて英国に紹介されていましたが、当時これに注目する英国人はほとんどいませんでした。

 もとよりフランス語など読めも話せもしないロバートのことですから、彼はバルネ博士の英訳本を何かの折に見たのでしょう。ロバートは、これに何か閃くものがあったと思われます。彼は、「そうだこれだ!」と、乏しい脳漿を絞りに絞って仲間に散々知恵を借りてシャカリキに その書物(バルネ博士の英訳本)に取り組む姿が目に浮かぶようです。

そしてヒッピー運動の消滅とともにこのコミューンが、いわば流れ解散した後、俗物に成り果ててしまった(ヒッピーであったことが唯一の売りものだったのに)ロバートがこのアロマテラピーを英国に何とかして広め、精油を売る会社を自分で創って一儲けしようと考えたのは、十分にわかります。

まあ、無教養な人間としては、なかなかの男と言いたいところですが、私は少なくとも3人くらいで共謀したものと睨んでいます。

そして、ロバートの処女作『The Art of Aromatherapy,邦題:アロマテラピー:~芳香療法の理論と実際~』に19世紀~20世紀に流行ったキリスト教系新興宗教の断章、つまり、リバイ・ドーリングの『Aquarian Gospel、邦題:寶瓶宮福音書』はじめ、英国で注目され始めていた中国伝統医学に関する本を拾い読みし、ネタあさりをし、英国人に人気のある占星術や魔術などのオカルト的内容をアロマテラピーにことさらに結び付けようとしました。なにせハリー・ポッターにあんなに熱狂するお国柄ですからね。

このロバートの本を、彼らの精油商売のバイブル本にしたのです。

この原稿(ロバートの処女作)を受け取った出版社のC.W.Daniel社は、
「コイツは、10年がかりで売る本だろう」
と、考えて刊行に踏み切りました。

ところが、ロバートにとっても出版社にとってもまことに幸運なことが起こりました。
英国の幾つかの大手の大衆雑誌の編集者たちがロバートの著書を一読して、
 「こりゃ面白い本じゃないか!オレたちの雑誌で大きく取り上げて話題にしよう!」
と、言ってくれたのです。

そんなきっかけで、大半の読者が見たことも聞いたことも無かったおフランス発のアロマテラピー(英語で言うところのアロマセラピー)なる新しくユニークな自然療法を各雑誌が挙(こぞ)って取り上げました。するとこれが評判に評判を呼び、ロバート・ティスランドという誰も知らなかった男の初めてのアロマテラピー解説書(『The Art of Aromatherapy,邦題:アロマテラピー:~芳香療法の理論と実際~』)は、出版元もロバートも全く予期しなかったベストセラー本の仲間入りをしました。

こうして、ロバート・ティスランドは、一躍まるでアロマテラピーの元祖であるような扱いを人々から受けるようになりました。

この記事は参考になりましたか?

少しでも参考になればSNSでシェアしてもらうと嬉しいです。
   ↓ ↓ ↓

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

0 件のコメント:

コメントを投稿