香り・匂いをコトバで直截(ちょくせつ)に表現するのは、原理的に不可能である。
「鼻にツンとくる酢のような匂い」
「腐った卵のような悪臭」
「魚のハラワタが腐敗したようなむっとくるいやな匂い」
「青葉若葉のむせ返るような匂い」
「青リンゴを食べた時の風味を思わせる匂い」
などと、たとえをもちだして人に想像させるしかない。
青リンゴはこうした例によく持ち出される。
***
スーパーマーケットなどにリンゴが並ぶ頃になると、私はそのさわやかな香りを嗅いで何とも言いようのない悲しい思い出がうかんでくるのを、おしとどめることができない。
***
幼い私は、1943年に長野県北部の新潟県境に近い町に東京から空襲を避けて疎開していた。
小学校(当時は国民学校と呼んだ)2年のときに敗戦を迎えた。この頃のことはもう思い出したくないつらい記憶ばかりだ。
まず、食べるものがない。カボチャは実はもとより、葉も茎もツルまでも食べた。さつまいもも同様だった。雑草も、たいてい口にした。私が食べられる野草にやたら詳しくなったのも、このときの経験からだ。私はガリガリにやせ細って、目玉ばかりギョロつかせていた。
その町からかなり離れた村に、国民学校の分校があった。村の中央を一時間に一本ぐらいの割で通過する鉄道の線路が走っていて、これが村を二分していた。駐在所・診療所もあったが、淋しい村だった。
飢えていたのは、私のようなこどもばかりではない。米作農家の人間はべつとして、 おとなもほとんどみんな、腹をすかせていた。
長野県はリンゴの名産地の一つである。この寒村にもリンゴ園をもつ農家が一軒あった。嵐が吹き荒れた翌朝などには、まだ小さな青リンゴがかなり遠くまで吹き飛ばされてくる。村のこどもたちは争って、そのしぶく、まずい未熟なリンゴをひろって、大人にみつからぬようにコソコソ食う。
でも、こどもにとっては、何よりもおいしいものだった。
ウメの実同然、バラ科の未熟果は有毒だ。だがそんなことを気にするものはいなかった。
リンゴが熟しかけると、一つ一つの果実に紙袋をかける。その紙袋をかける直前のことだったか直後のことだったかわからない。その村の分校の校長先生が、ある夜、格別の用もないのに浴衣姿でふらふらと家をでた。
自分自身の空腹は樹の皮をかじっても、水を飲むだけでも、何とかガマンできる。
しかし、先生には4人も子供がいて
「おなかがすいたよう」と泣く。その声を聞くのがつらくて、先生は家をあとにしたのだった。
先生の月給は1300円ぐらい。米一升(1.8リットル)は380円程度だった。これで、一家六人が一ヶ月くいつなぐのは大変だった。
先生はリンゴ園のそばを通りがかった。空きっ腹で、泣いているこどもたちのことを考えずにいられなかった先生は、道にむかって「とってください」といわんばかりに枝を伸ばしているリンゴの枝から思わず2個か3個のリンゴをもぎ取って懐に入れてしまった。
しんと静まり返った村である。 校長先生がリンゴを枝からもぎ取る音が、バカに大きくあたりに響いた。
(リンゴにまつわる話2 に続きます)
0 件のコメント:
コメントを投稿