英国のアロマテラピーの本を読んだり、アロマ理論家の話を聞いたりすると、「ホリスティックアロマテラピー」ということばに遭遇することがやたらに多い。
ロバート・ティスランドらの考えかたでは、アロマテラピーには三つのかたちがあるとする。
すなわち
①臨床的アロマテラピー
②エステティックアロマテラピー
③「ホリスティック」アロマテラピー
である。
臨床的アロマテラピーは 、医療のためにおこなわれるもので、もっぱらフランスで行われていると英国人は主張する(これには、私は異議があるが)。
エステティックアロマテラピーは、美容とリラクセーションとを目的として行われるもの。もっぱら精油類を体表で作用させて効果を発揮させる。
さて、ホリスティックアロマテラピーは、プロのセラピストが行うもので、クライアント個人個人の肉体・精神両面での異常を把握し、クライアントのライフスタイル、食生活、肉体的・情緒的な環境を考えてケアを行う、経験を積んだプロがほどこすもの。
以上は、もっぱらロバート・ティスランドらが唱えているアロマテラピーの内容である。
そして、ここで、彼らがいちばん売りものにしているのが、「ホリスティックアロマテラピー 」である。
ホリスティックは、ホーリズム(Wholism,Holism)すなわち「全体論」という哲学の形容詞。まず、この全体論について説明させて頂く。
これは、全体というものは、部分部分に、あるいはその基本的な要素に還元し分解することはできない、それ独自の原理をもつという哲学的立場で、この反対の考えかたあるいは立場は還元論(Reductionism)という。
還元論は、すべての事物を構成する下位構造をもつ単位を研究し、それを解明した結果を統合することにより事物の全体像をつかもうとする手法だと「ザックリ」いっておこう。
還元論に立脚する科学のおかげで、19世紀から20世紀、そして21世紀の今日にいたるまで、物を分子-原子-素粒子と分解して人間は物体の構成について知識を埋めてきた。今日、航空機が空を飛び、新幹線が時速350キロで突っ走り、都市のインフラが整備された。
いずれも、物事を細かく分けて、その範囲で精緻(せいち)な研究を行ってきたからだ。だから、science を「分科の学、すなわち科学」と訳したのは、よくこのことを知った人間の名訳語である。
しかし、では、生命現象は原子なり素粒子なりの運動として万事片付けられるだろうか。「個人の心理を合計したもの」と「群集心理」とが違うことは誰にも わかるだろう。
言語の世界だって、「彼は……」なんていっても書いても、意味をなさない。そのセンテンスを組み込んでいるコンテクスト、つまり、全体のなかではじめて意味をもつものとなり、その「彼」がナポレオンなのか、ボルコンスキーなのかが判然としてくる。
今日、全体論哲学は、とくに生命現象をめぐって、それが単純な物理・化学の法則で説明できないとしてふたたび脚光を浴びるようになった。
全体論者は還元論者を「木を見て森を見ない」と非難する。確かにそういわれてもしかたがない専門屋がいることはまちがいない。
言語に関心を寄せる私も、たとえば「緑」色ということばだって、プリズムで陽光を7色に分光して赤・橙・黄・緑・青・藍・紫 として、その全体のなかで色とその名とが相対的に決定されることを知っている。
そうすると、還元論者は「全体論者は森を見て木を見ない」と非難するのだろうか。
しかし、私にいわせれば、こんな二分的な論法は、ことばのゲームにすぎないような気がする。
有名な還元論者として、17世紀フランスの哲学者・数学者デカルトがいる。
ガリレイ→デカルト→ニュートンという近代科学の流れをつくった大人物である。
でも、デカルトは下位要素に分解して、それぞれを完全に理解したあと、それぞれの要素を完璧に復元させることを説いた(一種の思考実験的なものだ)。そのことは全体論者は無知からか、故意だか触れようとしない。
ところで、私は数年前、ひじに大怪我をして、救急車で病院に運ばれ、何人もの医師に囲まれて大手術をした。全身麻酔だったから、どのくらいの時間を要したのかわからない。しかし、その手術のあと、私は考えた。
私のひじの手術をし、神経の縫合をした医師(そばには、専門の麻酔医がついていた)は、ひじのこと、神経のことだけを考えて施術したのだろうか、と。そんなことがあろうはずもない。心臓のことも、肺臓のことも、動脈、その他あらゆる必要事項を勘案しつつメスをふるったに相違ない。
つまり「木を見て森を見ない」医師もいなければ、「森ばかり見て木を見ない」医師も存在しないのだ。また、木を知らずに森がわかる人間もいないし、それが森を構成することを知らない人間も現実には存在しない。
ホリスティックなどというご大層な名をつけた英国のアロマセラピストたちは、せいぜい心身は一体のものだから、それらを総合的に考えてアロマテラピーを施すべきであり、それは「アタシたちプロのセラピストに任せて、お金を払いなさい」とでもいった、浅薄かつ安直な考えから「ホリスティックアロマセラピー」などと、偉そうな名をつけただけなのだ。商売上のイメージ戦略である。
「ホーリズム」について、ピーター・メダワーという学者は、ホーリズムが「還元主義は有機体各部分を『分離して』研究しているなどというが、そんな芸当はできっこない」といい、哲学者カール・ポパーは、この考え方が社会科学にもちこまれると、国家権力を増大させることになり、全体主義(Totalitalianism)というコトバが表す概念と同じになってしまうと憂慮した。
そんな背景も考えず(いや、知らずというべきだろう)、ホリスティックなどということばを使って、ものを知らない人間たちが「私たちのアロマテラピーは、超ハイクラスのものですよ」と宣伝するのは、極めていかがわしい行為だ。ロバート・ティスランドらの「ホリスティックアロマテラピー」の人気が英国で落ち目の三度笠なのも当然といえよう。英国人も占星術だのミステリーサークルだのにこだわりつづけるバカばかりではないのだ。
イメージ戦略も、悪いと私は言っているわけではない。ときと場合によってはきわどい表現もある程度許されるだろう。けれども、たとえば、ホーリズムの本質、リダクショニズムの本質を知らずして、まるでパロディーのようにそれらのことばづらだけを利用するのは、私のもっとも嫌悪するところだ。
日本の化粧品・家庭用品のメーカーにも言っておく。「アロマの香り」などというメチャクチャなことばで人をいつまでもダマセるものではない、と。
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