2013年7月22日月曜日

笹餅(ささもち)の思い出

私は、ここ30年以上も「餅」というものを口にしたことがない。食べたいという気持ちになった経験も、まるでない。なぜだろう。

毎日、ほとんど飢えていた6歳、7歳、8歳のころには、正月や祭礼の日などに裕福な家に遊びに行ったとき、おこぼれのように餅を食べさせてもらえることがあった。

あのときほど、餅のおいしさを、総じて食べ物のうまさを感じたことはなかった。

聖書を読んで、「人はパンのみにて生くるにあらず」などというキリストのことばに接しても、「そりゃそうだ。すいとんや雑穀・雑草入りのめしやマメや、たまには餅なんていうご馳走を口にしたりして生きてるんだもんな」と、キリストのことばの意味を百も承知のうえで、ふらちでへそまがりな言葉を言い散らしていたのが敗戦後の私だった。

食料事情を含めて、日常生活の苦しさは、敗戦後、数年間がピークだった。

リンゴを盗んでしまったことを悔いてみずから縊死した先生が使用したフンドシが汚れていたのも、ろくな石けん一つなかったからだ。まるで泥が混じっているのではないかと思われるような石けんだった。洗濯板をたらいなどに立てて奥さんが洗濯物をゴシゴシこすっても汚れが落ちるどころか、かえって汚れが増すようにさえ思われる代物だった。

機敏な商人たちは、米国の兵士たちがクチャクチャ噛んではぺっと吐き捨てるチューインガム(こどもたちは、チューリンガムなどと呼んだ)のニセモノを作って、こどもたちに売りつけた。

その偽ガムの素材は、いまもってわからない。

ただ、本もののガムとの決定的なちがいは、ニセモノのガムには、甘味もミント風味も、まるっきりなかったことだった。

食料事情は、自分の家が米作農家だったり、親類縁者の家がそうであったりする場合はべつだったろう。せいぜい、現代のように新鮮な魚介類が口にできなかったという程度の記憶しかない人びともいると思う。でも、私のような境涯の人間は、多かったはずだ。そうだったからこそ、有名な「食糧メーデー」などというものがおきたのだ。

話は変わるが、植物のなかには、それ自体は食物にならないけれど、食物といろいろなことで「相性(あいしょう)」がよいものがある。その一つがササだ。また、タケもそうである。どちらもイネ科タケ亜種に属する植物で、人間の都合で区別されているだけのものだ。生えてきた時についていた皮が早く剥がれ落ちる種類をタケと称し、皮が一年もの間、本体からとれずに残っているものをササと呼ぶだけのことであり、いろいろ種類はあってもいずれもごく近縁だ。

たとえば、このタケの皮で握り飯など包むと保(も)ちがよいらしい(本当にそうかどうか、私自身で実験したことはないし、何か皮から分泌されたという学者の文章に接したこともないので、なんともいえない)。

ササの葉も同様の作用があるようだ。

私のすごしていた信州北部は、たぶん新潟文化の産物の一種と思うが、二枚の大きめのササの葉の間に餅をはさんだ笹餅というものがあった(ほかの地方にも、きっと同様な食品があったに違いない)。餅がおいしいだけでなく、餅にササの香りが移って、それがまたたまらなく魅力的だった。

前日に大雪が降った休みの日だった。きのうの空がウソのように晴れ渡って、陽光がまぶしく、暑ささえ覚えた(オーバーではない。何ごとも比較の問題で、南極で観測をした従兄弟によると、摂氏3度ぐらいになると極地で勤務する隊員たちは「暑い、暑い」と、みんな半袖姿だった。そのときの写真も見せてもらった)。

私は陽気に誘われて、家の外に出た。すると、年齢はまだ若い一人の男性の盲人が杖をたよりに苦労して歩いていた。無理もない。大雪が道に積もると、いままで杖の感触で頭の中に作り上げてきた世界がまるで変わってしまうのだから。

私は思わず、彼のもとに走り寄って「兄(あん)ちゃ。どこ行くの? 駅?」と尋ねた。
盲目の青年がうなずくのを見た私は、「じゃ、いっしょに行こ」と、青年の手をとった。青年の表情はあまり変わらなかった。

でも、彼は「ありがとう」と言って、杖を地面から離して胸に抱きかかえるようにした。

そして、すべてを私にまかせた。

私は、その盲人ができるだけ歩きやすい道をゆっくりと案内した。2人の間には、これといって共通の話題もなかったので、私はちょっと『リンゴの唄』などを口ずさんだ。

青年は嬉しかったのだろう。その蒼白だった顔は、灯をともしたランプの火屋(ほや)のように、ぽっと赤らんだ。

いくつかの横町を気をつけながら、私は彼を案内しつづけた。間もなく、私たちはその町の駅に着いた。

駅の表側に作られた駅の待合室に、彼と私とはいっしょに入った。彼は座席に腰をおろした。

「じゃ、さよなら」と言って、青年に声をかけて、私は彼から離れていこうとした。そのとき、その盲目の青年はだしぬけに「ちょっと」と私に声をかけて、もっていた小さい袋から笹餅を一つとりだして私にさしだした。

私はびっくりした。盲目の人のそんなところから笹餅などというご馳走が出現するなどとは、まるで想像もしていなかったからだ。私は、「そんなつもりであなたを案内したんじゃない」などと、断れなかった。お礼をいって受け取ってしまった。嬉しかった。

外でものを食べたりするのは、見よいものではない。しかし、空腹をかかえて歩いた私は、とうとうガマンできずに笹の皮をむいて、餅にかぶりついてしまった。あっという間もなく、香りのよい笹餅は私の胃の腑に納まった。

そのとき、私はハッとした。「これは、あの目の見えない人の弁当だったんじゃないか。それをオレは食ってしまったんだ。どうして、これをうけとるとき、そのことを考えなかったんだろう。ああ、オレは思いやりがなかった!」と、ひどい後悔に襲われた。

私は、べつにあの見ず知らずの人にとくに親切にしようと思って、あんなことをしたわけではない。私があの盲目の青年の道案内をしたのは、いわばちょっとした気まぐれだからだった。だから、私の後悔の気持ち、あの人の弁当を奪ってしまったという自責の念が、ひとしお強かったのだろう。どだい、私は冷静に自己を分析してみて、親切心など人一倍少ない方に属するだろうとさえ考えている。

かなり前に、ある小説の登場人物の一人が、「近頃は、他人に親切にすることを、まるで損をするみてえに思うヤツらが増えやがって」(この人物は江戸っ子という設定になっている)とこぼす場面を読んだことがある。

でも、私はこの人物に言いたい。

「いいえ。そんなことはありませんよ。親切な人間はまだまだたくさんいます。縁もゆかりもない他人のために、自分の身を犠牲にしたり、自分の知識を惜しげもなくほかの人に与えたりして、その人の幸福を願う人びとは決して少なくはありません。

列車や飛行機のなかで具合の悪くなった人の手当や介護などにあたる、たまたま同乗した医師・看護師は一円だって礼金なんて受け取りませんよ。……病人に手を出さない人間は親切心がないからじゃない。そのための技倆や知識などがもともとないからです。ミソもクソもいっしょにして、そんなことをおっしゃるものじゃありません」と。

でも、あの笹餅の味と香りとは、いまもって忘れられない。それでいながら、私が成人後は餅をまったく口にしなくなってしまったのは、いったいなぜなのだろう。

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