2013年7月4日木曜日

精油はなぜ効果を発揮するのか

ジャン・バルネ博士の名著『ジャン・バルネ博士の植物芳香療法(AROMATHERAPIE : traitement des maladies par les essences de plantes』には、興味深いことがいろいろ記されている。

月経を正常化するには、バジル油、ラベンダー油、ペパーミント油、クラリセージ油、タイム油などを用いるとよい。私(筆者)は、これらをキャリヤーオイルに適宜入れて、腹部マッサージしてはどうかと考える。

乳房を大きくし、泌乳を促すのは、アニス油、フェンネル油、レモングラス油などで、これらは、毎朝、歯を磨くように乳房にすり込むことをおすすめしたい(筆者)

血圧を下げる精油は、ラベンダー油、マージョラム油である。また、料理でガーリックを摂取するのも良い。

血圧を上げる精油としては、ローズマリー油、タイム油、セージ油などがあるが、これらの精油は副腎に直接作用して、アドレナリンの放出を促す力があるためだ。

精油はなぜ効果を発揮するのか。そう尋ねられてあなたは即答できるか。

ジャン・バルネ博士はまず、ロシアの学者フィラトフによる「生原体の刺激」という理論をとりあげる。

それによると、生体組織(人間・動物あるいは植物)が体組織から切り離され、苦痛の(あるいは生命を維持するのに困難を覚えるような[筆者])条件下(冷たさ、乾燥、蒸留など)におかれると、それらが何とかして生き残ろうとして必死になって、一種の抵抗物質を産出する。これをビオスチムリン、あるいはフィトスチムリン(bio は「生命体」、phyto は「植物体」の意、stimuline は「刺激素」の意味[筆者])と呼ぶ。

このビオスチムリン(フィトスチムリン)がすべての精油に含まれている。これが欠陥を生じた体組織に入っていくと、衰弱した生命プロセスを活性化し、細胞の代謝能力を強化して、各種の生理的な機能を改善するのである。

このビオスチムリン効果は、精油の特定の成分が発揮するのではなく、各種成分(未知の精油成分を含めて[筆者])が、総合的に作用して、そのプロセスの結果をして、肉体の異常を正常化することが発見されるのである。

これこれの精油が、こういう病的状態に有効だとレシピのようなものをならべた本はいくらもある。また、その炭化水素化合物の薬理効果を列挙している本はいくらもある。

しかし、それらがビオスチムリン、あるいはフィトスチムリンという、テルペン類とかフェノール類とかケトン類とかといったものの、それぞれの効果を総合した上位概念を設定しなければ、精油の効果を真に理解することはできない。

したがって、精油なり超臨界流体二酸化炭素抽出物なりの個々の成分ばかりにとらわれるのは愚劣なことである。
そうではなく、含有される各成分の、またそれらの成分と人体組織との相互作用にこそ、精油・超臨界流体二酸化炭素抽出物の効果の秘密がある。
このことがわからないようでは、アロマテラピーについて一生涯、次元の低い理解しかもてまい。

よくよく考えてほしい。ここが、アロマテラピーの真髄なのだから。



精油などの成分崇拝主義について考える

前回、全体論・還元論についてお話した。

精油の成分分析結果というものは、分析手順や分析法、分析条件を確認した後に試験結果を考察して読み込み、結果(成分表)を理解する必要がある。

精油のびんに成分表が添付されていたからといって、どういう根拠でそれが信頼できると思うのか。それは、分析機関の名をはっきりさせているのか。分析法や細かな分析条件も明確なのか。
分析結果も読めないのに、それが間違いないとよくわかるものだとつくづく感心する。本来ならば、クロマトグラムやその結果(分析対象の成分(標準物質)の試験結果とセットにして示されたもの)を再検証するスキルが必要なのだが。

クロマトグラフによる分析は、成分の同定(化合物が何であるかを調べる)と定量(含有量を計る)するものである。
まず。同定すべき明確な濃度の標準成分検体のピーク保持時間(リテンションタイム)と、ピーク面積を計測する。
次に一定の濃度に調整した試験検体のクロマトグラムを計測する。そして、分析すべき成分の検出されるピーク保持時間から成分名を同定し、ピーク面積の大きさと調整した濃度と標準成分濃度から含有率を割出す。
そのような、方法で無数ともいえる成分ピークの同定と含有率の割出しが物理的にできるはずもない。費用も時間も労力もキリがないだろう。


精油は、含まれる諸成分が単独で独立した効果をそれぞれ単純に相加的に発揮するものではない。その成分構成も、年々歳々微妙に変化する(ワインのように年により香りの変化がある)。

ラベンダーを例にとってみよう。ラベンダー油の8割くらいは、リナリルアセテートとリナロールでできている。そこで、合成リナリルアセテートと合成リナロールとを合わせて、アロマテラピーに使用すれば、ずいぶん安上がりに合成精油ができる。

だが、これでは、まるきり効果がないのだ。

リナリルアセテートとリナロール以外のラベンダー油の成分は20年ぐらい前には、100種とか200種とかと海外で出版された本に記されていた。

その後の分析技術の発展により、ラベンダー油の成分は800種にまで跳ね上がった。もうすぐ1000種を突破することは間違いなかろう。

それらの成分はむろんのこと名もついていないものが大多数である。

そうした成分は、人間の体にさまざまに複雑にはたらきかけ、総合的に効果を発揮するのだ。

いま、わかっている成分を知っても、それですべてがわかるわけがない。私たち人間は永遠に真理にはたどりつけないのである。

個々の成分が、効果を発揮するものではない。
天然の精油であれば、主成分のほかの何千何万もの未知の成分が人体にデリケートに作用して、効果を発揮する。そのプロセスをこそ、ふかく究めなくてはならない。

つまり、ジャン・バルネ博士のいう「トータルな精油を信頼しよう」とのことばに、私は全面的に賛成する。

精油に含まれている成分をことごとく調べあげるのは、現在の技術をもってしては非常に困難で不可能に近いのだ。
現在、しかじかの精油が有効性を発揮するなら、その諸成分が、どのように人体に作用して、効果を示すのか。それは、容易に判るものではない。
判らないものに屁理屈などをつけてもしかたがない。

そこは研究に研究を重ねるしかない。判らないものは判らないと正直に認めよう。

天然の薬物(中医学の生薬を含めて)年々歳々、成分比率が微妙に変わる(ワインのように葡萄の収穫年により、味わいや香りの変化があるのと同様)。しかし、それでよいのだ。
天然薬物は、人体に入ると人体の異常に対して、崩れたバランスを元に戻す力がある。例えば、ある中医薬の生薬(紅花・川芎・丹参・乳香・没薬・血竭など)は高血圧にも低血圧にも作用し有効性を現わす。それが天然自然の薬物の特色であり、精油の特色も同様である。しかも、これらは正しく使う限り副作用もなく、習慣性も伴わない。

還元論と全体論とは、一見正反対だが、じつはコインの表裏といえる。つまり、天然であり、正しい方法をもって採油したものならば、同じ原料であっても年々歳々、成分比率が微妙に変化がある精油・アブソリュート、超臨界流体二酸化炭素抽出物(俗にいうCO2抽出物)が採れる。しかしながら基本的に作用特性は変わらない。精油などの特性は、単純に「成分+成分+成分 …+成分」という式で表せるものではないし、その必要もない。

ラベンダー油に限っても、あと1000年の間にどれほどの成分が発見されるかわからない。
精油などの揮発性の化合物が無数に集まったものは、そのもの全体で特性を発揮しているものであり、主要成分だけでは説明できない作用を持っている。無数の化合物が相互作用を起こしながら精油全体で作用し有効性も発揮しているのである。
あほらしい成分至上主義、成分崇拝主義は捨てよう。

ローマ時代のギリシャ人の名医、ディオスコリデスについてのジャン・バルネ博士のことばを紹介しておこう。

“私(ジャン・バルネ博士)は、アンリ・ポアンカレの
『説明できないから否定するほど非科学的なことはない』
 と、いう言葉を思いおこす。

ディオスコリデスを模倣しつづけよう。
ディオスコリデスは「医学におけるものごとは、その意味と結果によってのみ評価され、考察される」と考えて、腫瘍にたいしてイヌサフラン(コルチカム)を使い、それから19世紀のちの1934年のイヌサフランのアルカロイド、コルヒチンの発見を待たなかったのである。 ”


2013年7月3日水曜日

全体論と還元論とについて

英国のアロマテラピーの本を読んだり、アロマ理論家の話を聞いたりすると、「ホリスティックアロマテラピー」ということばに遭遇することがやたらに多い。

ロバート・ティスランドらの考えかたでは、アロマテラピーには三つのかたちがあるとする。
すなわち

①臨床的アロマテラピー

②エステティックアロマテラピー

③「ホリスティック」アロマテラピー

である。

臨床的アロマテラピーは 、医療のためにおこなわれるもので、もっぱらフランスで行われていると英国人は主張する(これには、私は異議があるが)。

エステティックアロマテラピーは、美容とリラクセーションとを目的として行われるもの。もっぱら精油類を体表で作用させて効果を発揮させる。

さて、ホリスティックアロマテラピーは、プロのセラピストが行うもので、クライアント個人個人の肉体・精神両面での異常を把握し、クライアントのライフスタイル、食生活、肉体的・情緒的な環境を考えてケアを行う、経験を積んだプロがほどこすもの。

以上は、もっぱらロバート・ティスランドらが唱えているアロマテラピーの内容である。

そして、ここで、彼らがいちばん売りものにしているのが、「ホリスティックアロマテラピー 」である。

ホリスティックは、ホーリズム(Wholism,Holism)すなわち「全体論」という哲学の形容詞。まず、この全体論について説明させて頂く。

これは、全体というものは、部分部分に、あるいはその基本的な要素に還元し分解することはできない、それ独自の原理をもつという哲学的立場で、この反対の考えかたあるいは立場は還元論(Reductionism)という。

還元論は、すべての事物を構成する下位構造をもつ単位を研究し、それを解明した結果を統合することにより事物の全体像をつかもうとする手法だと「ザックリ」いっておこう。

還元論に立脚する科学のおかげで、19世紀から20世紀、そして21世紀の今日にいたるまで、物を分子-原子-素粒子と分解して人間は物体の構成について知識を埋めてきた。今日、航空機が空を飛び、新幹線が時速350キロで突っ走り、都市のインフラが整備された。

いずれも、物事を細かく分けて、その範囲で精緻(せいち)な研究を行ってきたからだ。だから、science を「分科の学、すなわち科学」と訳したのは、よくこのことを知った人間の名訳語である。

しかし、では、生命現象は原子なり素粒子なりの運動として万事片付けられるだろうか。「個人の心理を合計したもの」と「群集心理」とが違うことは誰にも わかるだろう。

言語の世界だって、「彼は……」なんていっても書いても、意味をなさない。そのセンテンスを組み込んでいるコンテクスト、つまり、全体のなかではじめて意味をもつものとなり、その「彼」がナポレオンなのか、ボルコンスキーなのかが判然としてくる。

今日、全体論哲学は、とくに生命現象をめぐって、それが単純な物理・化学の法則で説明できないとしてふたたび脚光を浴びるようになった。

全体論者は還元論者を「木を見て森を見ない」と非難する。確かにそういわれてもしかたがない専門屋がいることはまちがいない。

言語に関心を寄せる私も、たとえば「緑」色ということばだって、プリズムで陽光を7色に分光して赤・橙・黄・緑・青・藍・紫 として、その全体のなかで色とその名とが相対的に決定されることを知っている。

そうすると、還元論者は「全体論者は森を見て木を見ない」と非難するのだろうか。

しかし、私にいわせれば、こんな二分的な論法は、ことばのゲームにすぎないような気がする。

有名な還元論者として、17世紀フランスの哲学者・数学者デカルトがいる。

ガリレイ→デカルト→ニュートンという近代科学の流れをつくった大人物である。

でも、デカルトは下位要素に分解して、それぞれを完全に理解したあと、それぞれの要素を完璧に復元させることを説いた(一種の思考実験的なものだ)。そのことは全体論者は無知からか、故意だか触れようとしない。

ところで、私は数年前、ひじに大怪我をして、救急車で病院に運ばれ、何人もの医師に囲まれて大手術をした。全身麻酔だったから、どのくらいの時間を要したのかわからない。しかし、その手術のあと、私は考えた。

私のひじの手術をし、神経の縫合をした医師(そばには、専門の麻酔医がついていた)は、ひじのこと、神経のことだけを考えて施術したのだろうか、と。そんなことがあろうはずもない。心臓のことも、肺臓のことも、動脈、その他あらゆる必要事項を勘案しつつメスをふるったに相違ない。

つまり「木を見て森を見ない」医師もいなければ、「森ばかり見て木を見ない」医師も存在しないのだ。また、木を知らずに森がわかる人間もいないし、それが森を構成することを知らない人間も現実には存在しない。

ホリスティックなどというご大層な名をつけた英国のアロマセラピストたちは、せいぜい心身は一体のものだから、それらを総合的に考えてアロマテラピーを施すべきであり、それは「アタシたちプロのセラピストに任せて、お金を払いなさい」とでもいった、浅薄かつ安直な考えから「ホリスティックアロマセラピー」などと、偉そうな名をつけただけなのだ。商売上のイメージ戦略である。

「ホーリズム」について、ピーター・メダワーという学者は、ホーリズムが「還元主義は有機体各部分を『分離して』研究しているなどというが、そんな芸当はできっこない」といい、哲学者カール・ポパーは、この考え方が社会科学にもちこまれると、国家権力を増大させることになり、全体主義(Totalitalianism)というコトバが表す概念と同じになってしまうと憂慮した。

そんな背景も考えず(いや、知らずというべきだろう)、ホリスティックなどということばを使って、ものを知らない人間たちが「私たちのアロマテラピーは、超ハイクラスのものですよ」と宣伝するのは、極めていかがわしい行為だ。ロバート・ティスランドらの「ホリスティックアロマテラピー」の人気が英国で落ち目の三度笠なのも当然といえよう。英国人も占星術だのミステリーサークルだのにこだわりつづけるバカばかりではないのだ。

イメージ戦略も、悪いと私は言っているわけではない。ときと場合によってはきわどい表現もある程度許されるだろう。けれども、たとえば、ホーリズムの本質、リダクショニズムの本質を知らずして、まるでパロディーのようにそれらのことばづらだけを利用するのは、私のもっとも嫌悪するところだ。

日本の化粧品・家庭用品のメーカーにも言っておく。「アロマの香り」などというメチャクチャなことばで人をいつまでもダマセるものではない、と。

2013年6月27日木曜日

凡人万歳

一定の音を聞くとつねに、一定の色をまざまざと見、一定の香り・匂いを嗅ぐと一定の味覚・視覚・聴覚などありありと(ただ、連想するのではなく、「具体的」に)感じ取る人がいる。

これを共感覚(synesthesia) と呼ぶ。

この感覚をもつ人間は稀にしかいないが、少数ながら昔からいた。
「鋭い音」「黄色い声」
などといっても、私たちがべつに違和感を覚えないのが、その何よりの証拠だ。

芸術家(とくに音楽家)には、この共感覚の持ち主が多い。ロシアの作曲家でピアノ演奏家の『官能の詩』などで有名なスクリャービンは、色光オルガンにより、曲の演奏にあわせて、一種のプロジェクターで、音とともにそれに彼が対応すると感じた色を投写した。彼は、一種の神秘思想家でもあった。

この演奏が終わるやいなや、会場内には拍手と嘲笑とがあい半ばして、ひびきわたったそうだ。

私はそんな感覚の持ち主ではもとよりない。しかし、この人はそうではないかと思う芸術家は何人かいる。

音楽家のルビンシュテイン、ドビュッシー、ラフマニノフ、画家のドラクロアなども、別に根拠はないが、そうだったような気がする。

まあ、これはやはり天才の特権なのかもしれない。でも、私はべつにそれをうらやむつもりはない。ハ長調のミの音を聞いて、口の中が塩気を感じたり、あたり一面がウンコ色に見えたからってどうだというのか。

私は自分が凡人でよかったと思っている。負け惜しみではない。たとえば、前記のようなことが絶えず起こったら、私はたぶん堪えられまい。

それとはちょっと違うのだが、私は、こうも思う。大音楽家、ことに作曲家は、心にひどいバイアスがかかっているだろうから、私のようにモーツァルトを、ベートーベンを聴いても(もちろん特に好きなもの、さして好きでないものもあるが)どれもいいなあと感じることはできまい。

バレエ・リュスのころ、アンナ・パブロワの「瀕死の白鳥」の作曲家、サン・サーンスはやはりこのときに話題を呼んだバレエ「火の鳥」の新進作曲家、ストラヴィンスキーの曲を聞いて、我慢ができず、顔面が蒼白になり、脂汗を全身にかいてほうほうのていで会場から逃げ出した。

でも、私はサン・サーンスもストラヴィンスキーも、それぞれべつの料理を味わうように楽しめる。こうした例を私はいくつも知っている。画の世界でもそうだ。

楽しめる世界をいくつも持っているということは、ステキなことである。前に変人奇人を讃えたが、手前味噌になるかもしれないが、ここで凡人万歳を三唱しておこう。

フランスのアロマテラピーの現状について

越中富山の反魂丹(はんごんたん)
鼻糞丸めて万金丹(まんきんたん)
それを呑む奴ァアンポンタン
 
むかし、富山は薬を製造する産業が盛んだった(まあ、いまもそうだろうが)。その薬は主として大坂に流れ、大坂には薬問屋がたくさんできた。薬品会社が関西に多いのは、そうした歴史があるからだ。富山大学の薬学部が有名なのも、それに関連がある。
 
上掲の俗謡も、そうした背景から生まれた。
 
むかしは、いまのように薬品を、その原料などを国家で定められた基準に従って薬屋が作るなどということは決してなかった。
 
農民や山林の民などは、そんな薬もほとんど買えなかったから、身近な薬草(ドクダミ、ゲンノショウコ、オトギリソウなど)をさまざまに工夫して薬用した。
 
私もこどものころ、栄養不足が原因の免疫不全からか、やたらに体に膿をもつ腫れ物ができた。
 
母は、そんな私の体中の患部にドクダミを焼いてベトベトにしたものを貼りつけた。すると、膿が排出されて、できものがなおるのだった。
 
『アロマテラピー図解事典』( 岩城都子[松田さと子]著、高橋書店刊)という本を書店で立ち読みしたところ、「アロマテラピー先進国であるフランスでは、ドクターが医療現場で精油の効果効能を利用、クライアント(ペイシェントというべきではないか-高山)の治療に使われています」とか、「医療の現場で利用されている」とかと書かれている。
 
アロマテラピーの発祥の地であるフランスでは、医師による『メディカルアロマテラピー』が確立。精油は薬局で処方され、内服も認められている。予防医学のカギを握るものとして普及している」とかといった、私には信じられないようなことが述べられている。
 
これは、考えにくいことだと私は早速これを刊行した書店にたずねた。
 
書店では、英国在住の著者に問い合せてくれた。仏人医師のひとりのその著者への答えとしてこの本の著者は私に以下のように知らせてきた。
To make things simple and clear, I prefer to let you know that medical aromatherapy is mainly practiced by doctors.(MDs) in private practices than in hospitals.
 
In some hospitals, the way essential oils are used is more as a side therapy for the patient's comfort or well being, but not really for the medical treatment itself.
 
In private practices, it is very different, and hundreds of private MDs use essential oils for medical situations, mainly infection (infectious ではないかな?-高山)diseases, with great success.
つまり、病院よりも市井の開業医などが私的にアロマテラピーを行っていること、病院でもいくつか、このテラピーを行っているといころはあるものの、主たる治療ではなく、あくまで患者の気分をよくするサイド療法として行っていること、そして、病院ではなく、プライベートにアロマテラピーを実践している数百名の医師たちは、精油類を感染症に使用して、大きな成功を収めている、というわけである。
 
すると、いくつも疑問が生じる。
 
まず、第一に、フランスの薬局方では、精油の使用を認めているのかということ。
 
民間医療は、各人が自分の責任で家族に施してもよいだろう(しかし、公的な病院を受診しなければならぬ疾病まで家族だからという理由で自己流の療法を施し、その結果重大な結果を生じさせたら、刑事責任が問われるはずである)。
 
つぎに、薬局方で精油の使用が認可されているなら、その精油はどんな基準を満たしているのかということ。(そんな医薬品グレードの精油が本当に存在するのか? どんなメーカーがどんな基準に従って作ったものか? AFNOR規格などの基準を満たしたといっても、それが医療品グレードということとは、全く別のことだ。この規格はいくつかのマーカー成分の存在と分量を確認するだけのものに過ぎない)。
 
精油のように、年々歳々その構成成分が変化するような不安定なものを、誰が、どんな根拠で、「薬剤」としてフランス全土の病院・医院で利用するのを許しているのか。
 
そんなことで、医師は責任ある治療ができるのか。日本だったら絶対に考えられないことだ。そこをぜひ問いたい。そもそも、そんな完璧な医薬品グレードの精油が作れる会社がもしあったら、世界中のアロマテラピー関係者は、それしか用いなくなるだろう。
 
だいたい、ジェネリック医薬品すら、それでは責任をもって治療にあたれないという医師も日本にはたくさんいる。フランスでは、そんな初歩的なことも医師は考えないのか。
 
中医学(中国伝統医学。しかし、漢方医学は中国伝統医学から枝分かれした別物となっている)やアロマテラピーなどは、いまの公的に是認されている現代医学とは根本的に異なった医療哲学のうえに成り立っている。その方針で治療にあたるというなら、筋が通っている。
 
だが、何でもかんでも効けばいいのだろうという考え方は危険だ。
漢方製剤(元来は中国伝統医学の処方)を販売している某大手会社のように、漢方製剤を用いるなら、本来は中国伝統医学理論に基づいて患者にそれを投与しなければならない。
 
それなのに、その製薬会社は、中国伝統医学から生まれた漢方製剤の使用にあたり医師たちにその理論を一切説かなかった(いまはどうなっているのか知らないが)。そのために、多くの死者を出す事態を招いた。患者の中には小柴胡湯エキスにより間質性肺炎という病気で死亡するものが続出したのである。この事件とは関係ないが、あの美空ひばりもこの間質性肺炎で亡くなっている。
 
三流週刊誌(私は週刊誌はすべて三流と考えている)は、「漢方薬に副作用がないという神話が崩れた!」と、騒いだ。
 
バカ記者の無知はいまさら救いようがない。それはどうでもよいが、フランスで、そんなに無原則的にアロマテラピーを現代医学に併用しているとすれば、フランスは現代医学を実践している国々のなかで、もっとも遅れていると言わざるを得ない。
 
英国の医師で「自分はアロマテラピーを行っている」などという人間は皆無だ。英国の医師は賢明だからだ。
 
フランスの薬局方で精油が認められているというなら、何の精油と何の精油か、そこを聞かせてもらおう(まさか精油ならなんでもOK、そんなことはなかろう)。そして患者にその内服もさせるというなら、そのアロマテラピーで万一事故が発生した場合、その医師はどんな処分を受けるのか、逮捕され実刑を宣告されるのか? 医師免許を剥奪されるのか? そこまではっきり調べてからものを書くべきだろう。
 
アロマテラピーを、ただのファッショナブルなおしゃれとして、香水利用の延長線上で考えているような人間は、くだらぬ本など出すべきでない。多くの人を誤解させるもととなる犯罪的な行為だと私は断じる。反論があるならうけたまわろう。

2013年6月26日水曜日

変人奇人こそが新しいものを生む

ものごとを、ほかの多くの人とはちがった角度からみる人間を、世間では「変人・ 奇人」と呼ぶ。

私は、変人奇人が大好きだ。

ガリレオ・ガリレイらが地動説を唱えたとき、ローマ教会の教皇や枢機卿などは、

 「なぜ、誰が見ても、太陽が地球のまわりを回っているのに、教会の教えに背いて、地球が太陽のまわりを回っているなどとへそ曲がりの説をいいふらすのだろう。
この男は無神論者のような、許されざる大悪人ではなさそうだが、度しがたい変人だ、奇人だ」 

として、ガリレイを宗教裁判にかけ、むりやり「もう、こんな説は唱えません」と教会側があらかじめ書いておいた文書に強引に署名させた。

1633年のことである。

その後、9年もの間、彼は軟禁された。そしてガリレイはそのまま死んだ。

それから三百数十年後、ローマ教皇ヨハネ=パウロ二世は、「あのときは、どうも申し訳ありませんでした」と、この宗教裁判の判決を全面的に撤回した。

足利事件の菅谷さんどころではない。

しかし、この偉大な変人・奇人が科学をどれほど進歩させたか、いまさらいうまでもあるまい。

ガリレイより1世紀ほど前の芸術家(といっておこう)のレオナルド・ダ・ビンチも、これまた大変人・大奇人だ。

高齢の老人が穏やかに死を迎えようとしていたとき、レオナルドは、老人とじっくり話を交わし、その精神のありようを確かめた。

そして、目の前でその老人が死んだとたん、すぐさまメスをとって老人を解剖し、まだぬくもりの残っている遺体を仔細に検査し、こうも穏やかな最期を迎えた人間の心と体との秘密を懸命にさぐろうとした。

レオナルドは、医学にさしたる貢献をしたわけではないが、人間をほかの誰よりも具体的に、みつめたその成果は、さまざまな比類のない芸術作品の形で結晶した。

レオナルドは、いろいろな宮廷に仕えて、王侯貴族を楽しませる「イベント」屋だった。

それがむしろ彼の本業で、芸術家というのはレオナルドの一面にすぎない。彼は弦楽器や木管楽器の名演奏者でもあった。

彼の遺稿(大半は散逸してしまったが)を読んでいると、ひょっとしたら、レオナルドもひそかに地動説を支持していたのではないかと思わせる部分さえある。これを変人奇人といわずして何と呼んだらよいだろう。

アロマテラピーの祖、ルネ=モーリス・ガットフォセは、香料化学者で調香師(ネ)だった。

しかし、ルネ=モーリスは偉大さの点では前二者には到底及ばないものの、ひどく好奇心の強い男だった。変人奇人だった。

雑誌を創刊して、香水のレシピを次々に発表したり、ギリシャ以来の史観、つまり人間の歴史は黄金・銀・銅・鉄の4時代からなり、黄金時代は、幸福と平和に満ちた時期だったとする考え方を復活させ、現在は「鉄」の時代だとして、黄金時代に戻ろうという願望を、エッセーや小説などの形式で世の人々に伝えようとしたりした。

かと思うと、かつてローマに支配されてガリアと呼ばれていた、古い時代のフランスの考古学的研究をしたり、失われた大陸アトランティスのことに熱中したりした。

しかし、会社の本業も怠らず、販売する品目を400点ぐらいにまで拡大している。

彼は第一次大戦で戦死した2人の兄弟に、一種の贖罪をしなければならないという気持ちが生涯あったようだ。

1937年にルネ=モーリスは、AROMATHERAPIEという本を出版して、この新たな自然療法を世に問うた。

しかし、時、利あらず、戦雲たちこめるヨーロッパでは、サルファ剤、抗生物質剤ペニシリンによる治療ばかりに人びとの注目が集まり、マルグリット・モーリーのようなこれまた変人を除いて、ほとんど誰もこの新しい療法に注目する人はいなかった。

むろん、例外的に、この療法を獣医学に応用しようとした人もいた。イタリアにも、この新療法にインスパイアされた学者、例えばガッティーやカヨラ、ロヴェスティーなど何人かでた。

しかし、はっきり言ってしまえば、アロマテラピーは事実上黙殺されたのである。1937年以降、ルネ=モーリス自身は、医療技術としてのアロマテラピーを発展させようという意欲をかなり失ってしまったようだ。

以後、彼はコスメトロジーのほうに軸足を移した。

ドゥース・フランス(うまし国フランス)が、ドイツに踏みにじられても、たぶん、ルネ=モーリスは、わが藤原定家のように、

「紅旗征戎(こうきせいじゅう)わが事にあらず」

と、定家とは異なった一種の絶望感とともに、現実をうけとめていたように思われる。

もはや、「黄金」時代にこそふさわしいアロマテラピーは、彼の心を少しずつ去りつつあったのではないか。マルグリット・モーリーは、ルネ=モーリスの弟子だったなどというのはヨタ話もいいところだ。

この二人は会ったことすらないのだから。しかし、マルグリットがガットフォセの着想を自分流に組み立て直して、それを自分のコスメトロジーに組み入れていなければ、そしてまた、第二次大戦中に何かの折にルネ=モーリスの本をのちのジャン・バルネ博士(マルグリット・モーリーが博士の弟子だったというのもヨタ話だ)が読んで、その内容を頭の片隅にとどめていなければ、今日、私たちがアロマテラピーなどという療法をあれこれ考えることもなかったはずだ。

ルネ=モーリス・ガットフォセは、1950年にモロッコのカサブランカで亡くなった。

2013年6月25日火曜日

新しいアロマテラピーを目指して

五月に刊行し、発売停止という、出版物としては稀な目に遭遇した私の著書、『誰も言わなかったアロマテラピーの《本質(エッセンス)》 のその後について、ご報告しよう。

私は28年ほど前に、アロマテラピーを日本にはじめて体系的に紹介し、人びとに外国で刊行されたアロマテラピーを研究して、それを人びとに教え、小型の蒸留器で精油の抽出をしたり、英仏をはじめ、米国・オーストラリア・スイス・ドイツを訪れて、精油の原料植物を手にとって調べたり、外国で各国の研究者たちに、英語で自分の研究成果を発表したりしつづけてきた。

私は、本に印刷されたことを読んで、それをすべて真実だと信じ込む幼稚園児クラスの頭の持ち主ではない(おっと、これは幼稚園のこどもたちに失礼なことを言ってしまった)。

私は、ときには、日本だけでなく、諸外国の研究者たちのさまざまな立場から書かれた文献を熟読し、それぞれが信じるにたりるものであるかをあらゆる角度から丹念に検討し、可能な場合には外国の研究者に、じかに面会して、諸問題をできるかぎりつまびらかにする作業に明け暮れた。稼いだ金もすべて研究に費やした。

私は、外国の書籍を翻訳する際には、原則として、その原著者に直接面会して、さまざまに質問して、疑問を氷解させた。私の質問に、原著者が「これはまずいですねえ」といって、原書の文章を私の目の前で書き直したことも何度となくあった。そうした事情を知らぬ読者のなかには、「ここは訳者が誤訳している!」と、鬼の首でもとったように思ったかたもいただろう。

直接、原著者に面会して、ろくにものも知らぬ通訳などを介さずにお互いの意思を通わせるほど、相手の真の姿に接近するよい方法はない。アロマテラピーの専門家と称して、自分の知識を派手にひけらかしている人物が、あってみると、あらゆる意味で薄っぺらな人間だとわかったことも再三あった。英国のアロマテラピーの元祖といわれる男も好例だ。

一言でいうのは困難だが、相手と話を重ねて、その相手と「心の波長」を合わせるのだ。
すると、その人間自身も気づかぬ「何か」が読めてくるのである。
これがまた面白い。アロマテラピーとは直接関係ないことなのだが。

さて、私の著書『誰も言わなかったアロマテラピーの《本質(エッセンス)》』 を、あるアロマセラピストらしき女性が批評して、「この著者はアロマテラピーを勉強したらしいが云々」といっているのを読んで、私は思わず吹き出した。

ねえ、あなた。私がいなければ、今日のあなたも存在しないのですよ。そのことがまだおわかりになりませんか。もうよそう。「バカとけんかするな。傍目(はため)には、どちらもバカに見える」というから。

この本をめぐっての話は、前にしたとおりだから省く。

でも、さまざまな圧力に堪え、私の原稿を製本までしてくださった出版社の社長の勇気と信念には本当に感謝している。妨害と闘いつつ、アマゾンと楽天でこの書物を社長に販売していただいたおかげで、北海道からも沖縄からも、全国的に声援が送られてきた。各地から招かれもしている。本にかけなかったことを、日本全国で存分にぶちまけるつもりだ。

やはり、いまの日本のアロマテラピー界のありようには、おかしなところがある。変な部分がある。資格商売で、公共の利益をうたう法人でありながら、許されないはずの金儲けを大っぴらにしている協会がある。自分の使っている精油はインチキではないか、などと疑いはじめた人が、いま、全国的にひろがっている。

協会や精油会社などで既得の利益収奪権を必死に守ろうとしている連中が、ほうっておいてもどうということもない、私のささやかな著書を圧殺し、断裁しようとして血相を変えているのも考えればすぐその理由がわかる。

アロマテラピーを真剣に、まじめに学ぼうとしている全国の方々に呼びかける。
「あなたの財布だけを狙う、インチキ協会に、インチキ精油会社に、インチキアロマテラピースクールにだまされるな!」と。

日本で、いちばん早くから、いちばん深くアロマテラピーを究めてきた私だ。その私が、いま、はっきりいおう。いまのアロマテラピーの世界には、変なところ、怪しいところ、狂ったところがある。

ルネ=モーリス・ガットフォセの唱えた最初のアロマテラピーの、マルグリット・モーリーの唱道したエステティックアロマテラピーの、そして、ジャン・バルネ博士の植物医学的アロマテラピーのそれぞれの哲学を、今こそ見直すべきだ。

日本○○協会セラピストの資格をとるための、くだらぬ受験参考書などは捨てよう! 私たちは、もっともっと別に学ぶべきことがある。

それをしっかり念頭において、アロマテラピーをみんなで力をあわせてフレッシュなものに生まれ変わらせよう!