2013年9月24日火曜日

アールヌーヴォーの衝撃②

沖縄県那覇市・兵庫県明石市でのアロマテラピーの講義とその準備、今後の講演の打ち合わせなどに時間がかかってしまい、執筆が予想以上に遅延したことを深くお詫びいたします。

今回は、アールヌーヴォーを支える精神的な支柱を、バレエという、人間が生み出したもっとも美しい芸術としばしば称される、人間が身体を駆使して、その魂を、その精神を縦横に表現する芸術を、今日の姿に育てあげた功労者の一人、ロシア人、セルゲイ・パヴロヴィッチ・ディアギレフについて語りたい。

ディアギレフは、1872年、ノヴゴロドの近くのペルミの比較的裕福な地方貴族の家に生まれた。母は彼を生んだその3日後に亡くなった。父親の再婚に伴って、当時の首都サンクトペテルスブルクで幼少時代を送り、10歳のとき故郷ペルミに戻った。

継母は彼を実の子のように心から愛した。この継母は莫大な財産の持ち主だった。何不自由ない青少年時代を送ったディアギレフは、1910年に再度上京して、ペテルスブルク大学の法科に籍をおいた。

しかし、彼は法律の授業にはほとんど出席もせず、芸術家を志して作曲・声楽を学び、マリインスキー劇場などで開催される演奏会などに頻繁に通った。のちに創刊する、『芸術世界(ミール・イスクーストヴォ)』誌で、ともに活動するアレクサンドル・ブノア(ロシアではベノアと呼ぶ)、レオン・バクストといった芸術愛好家らとの面々と知り合いになり、芸術談義に花を咲かせた。

しかし、作曲の師であるリムスキー=コルサコフから、「君には作曲の才能が欠如しているよ」と引導をわたされ、声楽も声質が悪かったことから(ピアノ演奏の腕前は相当のものだったらしいが)、みずから芸術家になることをあきらめた。そして、大学卒業後、自分を深く愛してくれた継母を亡くした彼は、継母の莫大な財産を手に入れ、西欧各地を旅行した。

そして、方々で名画を購入し、その展覧会を開催し、1897年以降6回も皇帝一族をその会に招待した。

同年、ブノアやバクストらと『芸術世界』を創刊したディアギレフは、1904年に同誌を廃刊するまで、英国のビアズレー、フランスのモネら西欧の新しい美術やロシアのアヴァンギャルドの画家たちの作品を誌上で紹介しつづけた。ディアギレフらは、さらにこの雑誌で安藤広重や葛飾北斎にいたる幅広い世界の芸術をロシア人に知らせた。これは日本人も知っておくべきだろう。


こうした活動の総決算のようなかたちで、1905年にディアギレフらはサンクトペテルスブルクのダヴリーダ宮殿で、『ロシア歴史肖像画展』を開催し、貴族皇族のコネを利用して、帝室の芸術作品のコレクションおよび全国各地から集めたものを約3000点を展示した。

このとき室内装飾を担当したのが、レオン・バクストだった。このころのロシアは迫り来る革命、日露戦争という内憂外患に悩まされる、ひどい不安定な情勢のもとにあったが、この展覧会には、ロシア帝国の最後の皇帝となってしまった、ニコライ2世をはじめ、多くの人びとがつめかけ、世界の芸術の新風を理解しようとした。

こうした空気がロシア革命直前から1930年代まで続行された「ロシア アヴァンギャルド」芸術を醸成(じょうせい)したことは確かだろうと思われる。

混乱する政治状況のもと、ディアギレフは西欧にロシア文化を大々的に紹介しようと考えた。

1906年に、彼はパリのプチ・パレでロシア人画家たちの大規模な展覧会を開き、これを成功させた。これによって、ディアギレフは、フランスの文化界・社交界と交流するきっかけをつくった。

ついで、ディアギレフは、ロシア音楽をパリで紹介することを計画し、1907年5月に5日間にわたる演奏会では、作曲者ラフマニノフ自身のピアノ演奏(彼はピアノの名演奏家でもあった)による『ピアノ協奏曲第二番』が披露され、さらにリムスキー=コルサコフ、スクリャービン、グラズノフがそれぞれ自作を演奏し、さらにチャイコフスキーの『交響曲第二番』その他のロシア音楽の粋というべき名曲の数々がパリジヤンに紹介され、これまた大成功を収めた。また、彼は世界のオペラ史上に不朽の名声を残したフョードル・シャリアピンによるオペラ『イーゴリ公』の抜粋版を上演させ、シャリアピンを主役にしたモデスト・ムソルグスキーのオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』全幕上演を、パリのオペラ座で実現させた。

パリの聴衆は、バス歌手シャリアピンの比類のない柔らかいバスの美声の歌唱力と、その演技力にひたすら驚嘆した(ちなみに、シャリアピンはラフマニノフの無二の親友だった)。

つぎに、ディアギレフはロシアのバレエをシャトレ劇場で「バレエ・リュス(ロシアバレエの意)」として発表した。ここでは『アルミードの館』、オペラ『イーゴリ公』の第二幕から独立させた『ポロヴェツ人の踊り』、『レ・シルフィード』、『クレオパトラ』などがパリの人びとに初めて紹介され、アンナ・パヴロワ、ヴァーツラフ・ニジンスキー、タマーラ・カルサーヴィナなど、ロシアでもっとも優れた若手バレエダンサーたちの目を見張る超絶的な舞踏テクニック、演劇的表現力、さらには前述の『ポロヴェツ人の踊り』での、これまでフランス人も英国人もまったく知らなかった男性ダンサーたちの勇壮な迫力に満ちた踊りは、19世紀後半からとくにパリで凋落(ちょうらく)し、腐敗しきっていた「バレエ」(フランスなどのバレリーナは売春婦同然の存在だった)というものしか半世紀近くも知らなかったパリの観客に一大衝撃を与えた。

この男性がバレエで踊るということについて、英国の有名なバレリーナ、マーゴ・フォンテーンが「英国など西欧の男性は、踊ることを恥ずかしがっていたが、ロシアや中東やアジアの男性は進んで踊る。踊りを好む。これが、西欧がバレエにおいて、とくに男性ダンサーに活躍の場を与えず、バレエでロシアに遅れを取った原因だ」という意味のことを語っていた事実が想起される。そういえば、日本人男性もさまざまに祭りの踊りをやるし、日本舞踊の家元はほとんどが男性だ。
マーゴ・フォンテーンは幼少時に父親の赴任地、上海でロシア人男性バレエ教師からバレエの手ほどきを受けていた。

ディアギレフのパリでのバレエ公演は、芸術的には大成功を収め、バレエ・リュスの名声は英国に伝わり、ロイヤルバレエ団を結成させ、米国のニューヨークシティーバレエ団をつくらせるという結果を生んだが、財政的には、ディアギレフはほとんど破産状態だった。(当時はテープレコーダーのようなものなどなく、リハーサル時にもオーケストラ団員に報酬をいつも支払わなければならなかった)。にもかかわらず、ディアギレフは将来の公演に備えて、ラヴェルに『ダフニスとクロエ』の、またディアギレフが発見した新進作曲家ストラヴィンスキーに『火の鳥』の作曲をそれぞれ依頼し、ロンドンに行って、公演会場探しをやったりしている。

彼をそこまで駆り立てたものは、いったい何なのか。金をもうけようなどという気でなかったことは、火を見るよりも明らかだ。

話はちょっとそれるが、バレエ・リュスに参加して、フォーキンが、10分という短時間で振り付けたサン=サーンスの『動物の謝肉祭』の『白鳥』に題材をとった『瀕死の白鳥』を踊って、世界的な名声を得た、20世紀初頭の最高のバレリーナ、アンナ・パヴロワ。彼女も第二の「バレエ・リュス」である。

アンナ・パヴロワは、もとより航空機もなく、鉄道網もおよそ整っていなかった当時、ヨーロッパ各国ばかりでなく、米国、英国、中南米諸国、オーストラリア、インド、東南アジア、日本にまでも足を延ばし、ロシアのバレエを紹介して普及させた。

彼女は実に地球を13周ぶん以上もの距離を旅し、地の果てまで回った。今日、私たちがチャイコフスキーの『白鳥の湖』、『眠りの森の美女』『くるみ割り人形』アダンの『ジゼル』などを観賞できるのも、アンナ・パヴロワとディアギレフとの両人のお陰である。

ただ、この二人の天才は、ソリが合わず、とくにパヴロワはストラヴィンスキーの音楽が大嫌いで、ディアギレフとともに『瀕死の白鳥』などで全ヨーロッパに名を轟かせたのは、ごく短期間であった。

彼女は日本では、1922年横浜や東京などでバレエを披露し、とくにパヴロワの代名詞にまでなった演目、『瀕死の白鳥』は、バレエに初めて接した日本人にも感銘を与え、芥川龍之介は「今日、僕は非常に美しいものを見た」と記しており、また歌舞伎界の六代目尾上菊五郎もパヴロワと芸談に花を咲かせ、パブロワの踊りに感銘を受けた菊五郎は、歌舞伎舞踊の『鷺娘(さぎむすめ)』に、『瀕死の白鳥』の振りをとり入れた。

彼女は50歳代初めに、オランダ公演へ赴く途中で病気に倒れ、手術を拒否して他界した。「白鳥の衣装をもってきて・・・」というのが、熱にうなされたパヴロワの最後のことばだった。

彼女が生きていれば公演するはずだった、オランダの劇場では、オーケストラがサン=サーンスの白鳥の曲を演奏し、投光器がパヴロワが踊ったであろう位置にライトをあて、観客はシーンとしてそれを見守り、曲が終わると万雷の拍手を送ったという。

以後、20年もの間、『瀕死の白鳥』を踊るバレリーナは出なかった。不世出のバレリーナといわれたアンナ・パヴロワと技倆をあからさまに比較されるのを恐れたこともあろうし、フォーキンとパヴロワとが創り出した一種の神聖な空気を犯す涜神(とくしん)的な行為と考えたこともあるだろう。

やがて、ソ連の名バレリーナ、マヤ・プリセツカヤがフォーキンの原振付けを少し変えて、『瀕死の白鳥』を踊り、以後、何人もの有名なバレリーナが、あるいはフォーキンの原振付のまま、あるいはそれをすこし変えて踊り続けている。
ロシアの男性ダンサーのファルフ・ルジマートフも、男性用タイツ姿でこれを見事に踊ってみせている。

話をディアギレフに戻すと、1910年、ディアギレフはバレエ団を再編成し、パリのオペラ座でストラヴィンスキー作曲の新作の『火の鳥』のほか、バレエ用に組曲を改編したりムスキー=コルサコフの『シェエラザード』を上演し、またまた大成功を収めた。

この公演では、ブノワ、バクストらの舞台美術も、フランスの芸術家たちに非常な刺激を与えた。とくに『シェエラザード』は、その踊りもさることながら、アールヌーヴォーの香りを漂わせるその舞台美術、衣装、大道具、小道具は、同時にそのころのパリの人士たちの夢想する「豪奢(ごうしゃ)で、華麗で、神秘的で、エロティックで、残酷なオリエントの世界」に、ひとときなりとも、思うさま浸りたいという思いを十二分に堪能させるものだった。ニジンスキーやカルサーヴィナらの演技がエロティックすぎる、アブなすぎるという非難の声もあがり、退席する観客もいたほどだが、それがまたさらに人気を呼んだりした。

バレエ・リュスのこのエキゾチックな魅力は、フランスの「野獣派(フォーヴィスト)」と呼ばれる画家たち(とくに、マチス、ヴラマンク、ブラックなど)や、またある意味で従来の芸術的な理念、アールヌーヴォーのアンチテーゼ的な観念、アールデコ様式を理想とする人びと(イラストレーターのジョルジュ・バルビエなど)にもまた反面教師として影響を及ぼした。

ロシア芸術は、芸術理念の変容をつぎつぎに生み出していく、きわめて豊穣(ほうじょう)な美田だったのだともいえよう。

こうして、2度のバレエ公演を成功させたディアギレフは、1911年に正式に常設のバレエカンパニー「バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)」を結成した。ディアギレフは、天才を発見する天才だった。彼は多くのフランス・ロシアなどの優秀な若手の芸術家を動員し、「総合芸術としてのバレエ」という、前代未聞の芸術スタイルを確立した。
三島由紀夫が「軽金属製のレオナルド・ダ・ヴィンチ」と評したジャン・コクトーも、 バレエ・リュスの脚本作りに参加し、『失われた時を求めて』のプルーストもこのバレエを観賞して「こんなに美しいものを見たのは、生まれて初めてだ!」と叫んだことも付言しておこう。

このバレエ・リュスでは、新進気鋭のミハイル・フォーキンの振り付け作品が大半だったが、天才的な技巧と演技力をもつダンサー、ヴァーツラフ・ニジンスキー(彼の超絶的テクニックの一つを具体的にお話しよう。ニジンスキーは、ピョンと一度飛び上がって、ふたたび着地するまでに、両足の裏を10回、打ち合わせることができた。みなさんも、一度お試しいただきたい)は、新作バレエの振り付けも行った。そのほかの有名な振付師は、レオニード・マシーン、ブロニスラヴァ・ニジンスカ(ヴァーツラフ・ニジンスキーの妹)、ジョージ・バランシンらがあげられ、いずれもユニークな振り付けを競うように行った。

ストラヴィンスキーは、『ペトルーシュカ』、『春の祭典』、『プルチネルラ』などを作曲し、ラヴェルは『ダフニスとクロエ』、ドビュッシーは『遊戯』、プロコフィエクは『道化師』、『鋼鉄の歩み』 、サティーは『バラード』、レスピーギは『風変わりな店』、プーランクは『牝鹿』など、今日なお私たちの耳になじみ深いたくさんの新進作曲家たちがみな、ディアギレフの求めに応じてバレエ音楽を真剣に創り出した。それまで多くの作曲家は、バレエ音楽というものを軽視、あるいは蔑視(べっし)していた。チャイコフスキーは、例外的な存在だった。それかあらぬかフランス人の多くはチャイコフスキーを平凡な作曲家としかみなかった。

バレエ・リュスの舞台芸術を手がけたものには、ロシア人ばかりでなく、ピカソ、マチス、ローランサン、ミロ、ルオー、ユトリロなどの有名な画家たちがいる。彼らは、そこからまた逆に自分たちの霊感を得たに相違ない。彼らの画風は、このあたりを境にそれぞれ大きく変化していった。

 パリ社交界のパトロンたちや、デザイナーのココ・シャネルらは、バレエ・リュスの活動を金銭的に援助した。公演が成功しても、ディアギレフの手にはほとんど金銭は残らなかった。どう工夫しても、支出のほうが収入を上回ってしまうからだった。

ディアギレフは、新作バレエだけでなく、チャイコフスキーの『白鳥の湖』、『眠りの森の美女』、アダンの『ジゼル』も上演した。

ディアギレフは、ロシアオペラの上演も何度となく行った。リムスキー=コルサコフの『プスコフの娘』、『五月の夜』、『金鶏』、ストラヴィンスキーの『マヴラ』などがその演目である。

ディアギレフは、1929年にドイツやスイスなどを旅したが、同年の8月19日に持病の糖尿病が悪化して、ヴェネツィアのホテルで死去した。そこに駆けつけたのが、ココ・シャネルとそのポーランド人の女友達、ミシア・セールだった。ディアギレフは、このときほとんど無一文だった。金目のものは、せいぜいカフスボタンぐらいだった。

ココ・シャネルは、たまっていたホテル代を支払い、ミシアと二人だけでディアギレフの野辺送りをした。ディアギレフの遺骸は、ヴェネツィア近辺のサン・ミケーレ島に埋葬された。世界大恐慌のおこる二ヶ月前のことであった。

バレエ・リュスは、ディアギレフの他界によって解散したが、その団員からはバランシンらのように、ロシアのクラッシックバレエの伝統と真髄を英米に移植したものや、バレエ教師となって多くのダンサーを育てたセルジュ・リファールのように、パリ・オペラ座のバレエを復活させるのに貢献したものがつぎつぎと出た。2012年に亡くなったモーリス・ベジャールもこの系統の人物である。極論すれば、ディアギレフとはやばやと決別したアンナ・パヴロワなどは別格として、直接間接にディアギレフのバレエ・リュスの影響を受けなかったバレエダンサーは少ないといってよいだろう。

ディアギレフは、実母が自分を生んだことで死んだり、継母に深く愛されたりしたことが原因しているのかどうかわからないが、(英ソ合作の映画『アンナ・パブロワ』には、そんなことをにおわせるセリフが出てくるが)、ともかく、一生を通じて同性愛者で、女性を愛した経験は皆無だった。したがって、彼の子孫はいない。

彼には、性愛の対象の男性を一流の芸術に触れさせて教育する癖があった。その相手としてもっとも有名なのが天才的バレエダンサーのヴァーツラフ・ニジンスキーである。ニジンスキーのほうは、ディアギレフのような「真正同性愛者」ではなく、ディアギレフとの関係に嫌気がさして、勝手に女性と結婚して、ディアギレフの逆鱗に触れて絶縁されたが、その後もディアギレフはマシーン、リファール、晩年には秘書のボリス・コフノともそうした関係をもった。

そんな関係をディアギレフともったことが原因かどうかわからないが、この天才的ダンサー、ニジンスキーは8年間活躍しただけで引退してしまい、統合失調症(精神分裂病、スキゾフレニア)になり、その後の人生は精神病院をたらい回しにされ、インスリンショック療法を受けつづける痛ましいものだった。そんな彼を妻ロモラは献身的に看病したが、症状は好転せず、1950年、ロンドンで生涯を閉じた。ロモラは『神との結婚』という回想録を書いている。

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