2013年8月16日金曜日

沖縄県那覇市で講演をします。

沖縄講演会の詳細

http://www.meetsnature.com/seminar/

大タイトル:「誰も言わなかったアロマテラピーの本質」

〜10年後も健康に生きる人へ贈る、75歳の香り知恵袋〜

場所:両日とも沖縄船員会館


2013年08月24日(土) 13:00〜16:00
一般講演「40、50代だからこそ始める植物=芳香療法としてのアロマテラピー」
ゲスト:内科医 大場修治先生
詳細⇒
https://www.meetsnature.com/seminar/day/20130824takayama.html

2013年08月25日(日) 9:30〜11:30
少数対話会「若いセラピストたちへ伝えたいことがたくさんある」
詳細⇒
https://www.meetsnature.com/seminar/day/20130825takayama.html

2013年8月14日水曜日

アールヌーヴォーの衝撃①

19世紀の後半、東方から(ある英国人は、私に、中央アジアのサマルカンドあたりからではないか、となかば真剣に言っていた)、一陣の魔法の風が、ロシア、オーストリア、フランス、そして英国に吹き寄せてきた。そして、この風は大西洋を渡って米国に、さらには極東の日本にも及んだ。

この風は、建築・家具・ガラス工芸・宝石細工・ポスター・挿絵など、人びとの身のまわりのもののデザインにまずあらわれた。

この様式、あるいはそれを生み出した風潮を、まとめてフランス語で《Art nouveau》アールヌーヴォー-すなわち、新しい芸術と称する。フランス・ベルギーのフランス語圏では《Style nouveau,スティルヌーヴォー》、《Style moderne、スティルモデルヌ》とも呼んだ。前者は「新しい様式」、後者は「モダン様式」を意味する。ドイツでは《Jugendstil》ユーゲントシュティル(青春様式)と称した。

各国の貴族社会が崩壊しつつあったこの時代、資本主義はいちだんと発展し、都市化・工業化がヨーロッパ各国で進展した。

各国の芸術家は、工業社会がもたらす醜悪な生活環境に抗議し、新しい酒を満たすのにふさわしい新しい皮袋を創り出そうとした。

しかし、この「魔法の風」は、それにふさわしい不思議な吹き方を幾重にもわたってした。

アールヌーヴォーが最初にあらわれたのは、産業革命が各国に先駆けておこった英国である。それだけ工業社会の空気と芸術との矛盾が、あるいは乖離(かいり)が甚だしかったためだ。19世紀のなかばに「ラファエル前派」そのほかの芸術上のさまざまな動きからはじまったこの風潮は、いろいろな芸術家の手で本の挿絵(ビアズレーなど)、ガラス器、銀器、家具などにおいて、すべての面でスッキリした曲線をもつものとして(つまり従来の自然主義・アカデミズムのアンチテーゼとして)具象化された。

この風潮はすぐにベルギー・フランスに波及し、エミール・ガレがこの時代思潮にみちたガラス器、ルネ・ラリックは宝石細工に、自然を美しく造形化した作品をいくつもつくった。

こうした作風は、パリの地下鉄の入口のデザインにも取り入れられ、パリの風物詩となった。エッフェル塔も、いかにも近代を感じさせる素材の鉄を用いて、パリの空を斬新な線で切った。

スペインのバルセロナで、いまだ建築中の大教会堂の「サグラダ・ファミリア」などで高く評価されつづけているスペインのガウディーもこのアールヌーヴォーの理念を生かして、これまでの建築物の概念をがらっと変えてしまった天才の一人だ。

絵画やポスターなどの方面で有名なアールヌーヴォー派は、チェコの(当時オーストリアの統治下にあったので、オーストリアのといわれることが多い)アルフォンス・ミュシャの演劇の主催女優の美しさをくっきりした線でえがきだしたポスターは、フランスの名女優サラ・ベルナールらの視線をひきつけ、人びとの非常な人気を集め、オーストリアのクリムトの絵画は、装飾的・官能的な 女性像を多く残した。金箔(きんぱく)を多用した『接吻』と題する新しい絵画は、きわめて華麗な平面的な(ここに当時の日本趣味が底流としてあったことも忘れてはならない)、いままでのアカデミックな絵画とはまったく異なる次元の空間を出現させた。パリのミュージックホールなどのポスターで有名なトゥールーズ・ロートレックの名も落とせない。

こうした19世紀後半から20世紀初頭にかけての時代精神(ドイツ語でいうZeitgeist)は、音楽の世界にもひろがっていき、ドビュッシーやラベルそのほか無数の音楽家に、聴く人々を夢幻の世界、心をこよなく陶酔させるエクスタシーの境地に導く楽曲をつぎつぎと生み出させることになった。

絵画にせよ、音楽にせよ、いままでのアカデミックな世界の創造をめざしてきた芸術家たちは、いっせいに表現の方向を変えていった。19世紀初頭に写真が発明されて多くの画家たちに 「絵画は死んだ!」といわせ、嘆かせた絵画を、写真では描写できない甘美な絵画のみが再現できる世界、古い世の崩壊の予兆をひしひしと実感させる世界を、人々に実感させようと気鋭の画家たちはキャンバスの上に、ポスター類の上に表現しようと考え、工夫をこらした。

音楽家たちも、いままでのアカデミックな世界から人を夢幻の世界に拉しさる曲をつくるようになった。ドビュッシー、ラベルその他 多くの音楽家たちは、いままでの官廷で演奏されてきたような古典的な楽曲ときっぱり縁を切り、一般の人々を音で酔わせるメロディーをつぎつぎに奏ではじめた。

私は、この時代よりやや遅れて登場した日本人画家の佐伯裕三(さえき・ゆうぞう)が、渡仏して、自分の作品をフランスの大画家に見せたところ、“Cet académisme!(何だ、このアカデミズムは!)”と、嘲るように一喝され、愕然とし、時代の変遷を豁然と大悟して、以後その画風を一変させたというエピソードをいつも思い出す。

今回は、ここまでにし、いよいよこの風潮が一体に結集した「バレエ・リュス」について、次回お話ししようと思う。

これこそが、アロマテラピーに深甚な影響を与えた一大イベント、二度と再び世界の人びとが体験することはない空前絶後の芸術のフェスティバルだったからだ。

このフェスティバル (これは、あまりに俗人の手垢がついてしまったコトバなのだが)ないし、近代芸術の「総結集」こそが、現代のあらゆる芸術の母体となった。

私自身の気分をここで一新させ、稿をあらためなければ、このバレエ・リュスについて語り尽くせないことを、なにとぞご了承いただきたい。次回をお楽しみに。

2013年8月6日火曜日

Der Lindenbaum(リンデンバウムの歌)

Der Lindenbaum(リンデンバウム)の歌

(ドイツの詩人、ヴィルヘルム・ミュラーの『冬の旅[Winterreise]』 と題する連作詩の一つ。シューベルトがこれに1827年に作曲し[全24曲]、失恋した青年のあてどもない冬の放浪の旅と、その荒涼たる心象風景を描き、詩と音楽、歌とピアノの伴奏とがみごとな一体になった表現で、ドイツ歌曲[リート]の頂点の一つになっているもの。日本でもかなり以前から『菩提樹(ぼだいじゅ)』の訳題で、ドイツ民謡のひとつとしてひろく親しまれてきた)


Am Brunnen vor dem Tore, 市外の門の噴水のそばに
Da steht ein Lindenbaum: リンデンバウムが一本立っている。
Ich träumt’ in seinem Schatten 私はその木陰でたくさんの
So manchen süßen Traum. 甘い夢をみたものだった。

Ich schnitt in seine Rinde 僕は、かずかずの愛のことばを
So manches liebe Wort; その木の皮に彫ったものだった。
Es zog in Freud und Leide 嬉しいとき、悲しいとき、
Zu ihm mich immer fort. いつも、ひとりでに足がそこにむかった。

Ich mußt’ auch heute wandern 今日は、真夜中に木のそばを
Vorbei in tiefer Nacht, 通らなければならなかった。
Da hab’ich noch im Dunkel それで、暗闇の中だというのに
Die Augen zugemacht. 目をひたと閉じてしまった。

Und seine Zweige rauschten, すると、枝々がざわめいて
Als tiefen sie mir zu: 僕に呼びかけるような感じがした。
Komm her zu mir, Geselle, 「私のところへおいで、若者よ、
Hier findst Du Deine Ruh’! ここがお前の憩いの場なのだ!」

Die kalten Winde bliesen 冷たい風がまっ正面から
Mir grad in’s Angesicht; 僕の顔に吹きつけた。
Der Hut flog mir vom Kopfe, 帽子が頭から飛んでいった。
Ich wendete mich nicht. でも、僕はふりむきもしなかった。

Nun bin ich manche Stunde いま僕は、あの場所から
Entfernt vom jenem Ort, 何時間も離れたところにいる。
Und immer höt ich’s rauschen: しかし枝のざわめきがいつまでも耳から離れない。
Du fändest Ruhe dort! 「ここがお前の憩いの場なのだ!」

私は日比谷高校時代、音楽の時間に教師からドイツ語を教わり、シューベルトの『冬の旅』やシューマンの『詩人の恋』(詩はハイネによる)などを、原語で一人一人きっちり歌わせられた。

暗くて重い感じの曲ばかりで成る『Winterreise(冬の旅)』24曲のなかでは、比較的明るい曲調に入るものだが、ホ長調、四分の三拍子で、第2節が短調となり、第3節では旋律が大幅に崩される変奏有節形式で、やはり暗さが感じられる。しかし、これはシューベルトの歌曲のなかでも、もっとも有名なものであろう。

日本でもかなり昔から近藤朔風の名訳詩によって、人びとにひろく親しまれた。たぶん、日本語の高低アクセントをあまりむりなくメロディーに合わせたためかと思う。

しかし、「風が吹いて帽子が飛んでいったが、ふりむきもしなかった」のところが「笠は飛べども捨てて急ぎぬ」となっているのは、なんだか広重の東海道五十三次の宿場の図を思わせて、何となくおかしい。 

この『冬の旅』は、1827年、すなわちシューベルトの死の前年に作られたものだ。彼はチフスのせいで翌年31歳で夭折(ようせつ)している。

一夜、友人たちと夕べをすごしたシューベルトは、「これから、諸君に恐ろしい歌を聞かせる」と前置きして、この冬の旅をみずからピアノ演奏して歌い、友人たちに初披露した。

一同は、その各曲の内容のあまりの暗さに惨として声なく暗澹たる気持ちのままで、シューベルトの家をあとにしたという。

西洋音楽史上、燦(さん)として残るこの歌曲を作曲者みずから歌い、伴奏するのを己の耳で聞く、まさにこの上ない「特権的なとき、至福のとき」だったのに。……

ところで、この曲に登場する樹木Lindenbaumは「菩提樹」と訳されてきたが、これは正しくない。

リンデンバウムは、セイヨウシナノキ(Tilia cordata[コバノシナノキ・別名フユボダイジュ])と、T.platyphyllos[ナツボダイジュ]との交雑種)で、英名はlinden[リンデン]、lime[ライム](この名はカンキツ類のライムとまちがえやすいので要注意)、フランス語ではtilleul[ティユル]という。

菩提樹は、釈尊がその下で悟りを開いたとされる木、無憂樹は釈尊が生まれた近くに生えていた木といわれ、また沙羅双樹は、その下で釈尊が入滅したという木で、これが仏教の三大聖樹である。このボダイジュは、リンデンバウムとは全く関係ないクワ科イチジク属の樹木(Ficus religiosa)である。インドボダイジュ、テンジクボダイジュとも称する。

英語では、bo-dhi-treeという。このbo-dhiは、サンスクリット語。中国語で菩提と表記する言葉を写したもの。ちなみに英語のbodyも同じ語源に由来している。


日本特産のシナノキ(Tilia japonica)は、アオイ科シナノキ属で、これもリンデンバウムとはかなり植物学的に離れた存在である。

リンデンバウムは、中世以来、男女の愛を結ぶ木とされ、中世ヨーロッパの恋愛詩、ミンネザングでは、この木とその梢で歌う可愛い小鳥たちは、恋愛に欠かせぬ点景となった。

リンデンバウムは人びとに愛され、道路の並木にされ(ベルリンのウンター・デン・リンデンの大通りを想起されたい)、人名でもリンダ、リンドバーグ、リンネなどはすべてここから来ている。

リンデンバウムの葉を生のまま、あるいは干したものをひとにぎり、1リットルのお湯に入れて、15分くらい煎じたものを1回に2~3回に分けて飲用すると、夜ぐっすりと眠れ、動脈硬化、心筋梗塞、狭心症の予防に効果がある。日本でもハーブショップなどで市販されている。

リンデンバウムの花は、はちみつの蜜源としても有名である。

 

2013年8月1日木曜日

閑話休題

月日のたつのは速いもので、私の著書『誰も言わなかった、アロマテラピーの《本質:エッセンス》』が出て、すぐ発売停止処分になって3ヶ月近くになった。

私の本をAmazonと楽天とで買ってくださった方がたの大半は、私の所論に「痛快だった」「爽快だった」といったことばとともに、双手をあげて賛成してくださった。

まず、マトモな人間なら、当然そうあるべきである。ごくごく一部のバカどもと覚(おぼ)しい、IQの低い奴らが、この私にたいする尊敬の念が失せたとかなんとか言っていたが、私としては願ったり叶ったりだ。

バカ、ヤクザ、ゴロツキ、横っちょからよけいな口を出す利口ぶった奴らに尊敬などされるのは、迷惑千万だからだ。

私 の好きな明治人、欠点だらけかも知れないが、親しみを感じないではいられない明治の男の一人に、ジャーナリスト、黒岩涙香(くろいわ・るいこう)がいる。 『巌窟王』、『噫無情』、『白髪鬼』などの翻案者としても有名な、私が中学生ごろからの大ファンになっている明治の人物である。

涙香は『万朝報(よろずちょうほう』という政府高官のスキャンダルをあばくことを売り物にした新聞を1892年に創刊し、大いに人気を博した。社員に幸徳秋水、内村鑑三、堺利彦がいて、健筆をふるったことも有名な話だ。

その黒岩涙香の一文に接し、胸に迫るものがあったのでご紹介したい。

「……凡(およ)そ新聞紙として、我が萬朝報の如く批評さるるものは稀なり。而してその批評の多くは悪評なり。曰く毒筆、曰く嫉妬、曰く脅迫、曰く某々機関。若(も)し萬朝報を悪徳の新聞とせば、萬朝報は以後も斯くの如き悪徳を貫きて止まざるべし。
萬朝報は戰はんが爲(ため)に生まれたり。
萬朝報は何の爲に戰はんと欲するか。吾人自(みずか)ら敢(あ)えて義の爲と言ふが如き崇高の資格あるに非(あら)ず。然れども斷(だん)じて利の爲には非ざる也(なり)。

萬朝報が人身を攻撃する事有るも、未(いま)だ悪を責む、悪を除く以外の心を以(もっ)て人を責めたる事無し。有體(ありてい)に言ふ。萬朝報は悪人に對(たい)しては極端に無慈悲也。悪の改むべからざるまでに團結(だんけつ)したるものと見(み)ば、ただこれを誅戮(ちゅうりく)するを知りて宥(ゆる)すを知らず。特に權門(けんもん)の醜聞に於いて、吾人は露程も雅量なし。

我が手に斧鉞(ふえつ)あり。我が眼に王侯無し。況(いわん)や大臣に於いてをや。」
涙香は、一度ネタに食いついたら離さないというところから、「蝮(まむし)の周六」とあだなされた。
周六は涙香の本名である。

 昔日の遊郭における幇間(ほうかん[たいこもち])のように人の機嫌をとるのはラクである。しかし、マムシの周六ほど、いわゆる権門の輩(ともがら)に憎まれるのは、難しかろう。

私はべつにジャーナリストでもなく、人が自分の金を女道楽に使っても、べつにどうとも思わない。ただし、その金が人民から搾りとった膏血だったら話はべつだ。そのときは、涙香を師と仰ごう。

私が何十年も訳業に明け暮れていたときは、原著者のいわんとするところを過不足なく、品のよい口調で、原著者の言語にふさわしいことばを選んで表現することに腐心した。

だ が、おのれのことばで、自分の考えを文字にするとなれば、自分を偽ることなくさらけだして何が悪い。むしろ、それは私はおのれの義務と考える。「ことばが キツすぎる、ロコツすぎる、そこまでいわなくても云々……」。ふふふ、悪うござんしたねえ。でもね、あっしはもともと、隠しだてはきらいなんでござんす よ。そのおつもりでいておくんなせえやし。

マムシの周六先生には及びもつかねえ、しがねえ野郎でござんすがね。周六先生のマネゴトぐらいは、させてやっておくんなせえ。

2013年7月29日月曜日

塩田清二著 ≪香りはなぜ脳に効くのか≫続き

前回は、塩田清二氏の上記の書物の「まえがき」について感じたところで紙数が尽きてしまい、中途半端なものに終わってしまったことを、お詫びしたい。

さて、前回にのせた感想と同じことを、NHK出版の大場編集長にお伝えしたところ、塩田氏は、たとえこの療法がルネ=モーリス・ガットフォセが「アロマテラピー」と名付けようと、自分は医療という意味を強調したいので、あくまでもアロマセラピーと称し続けるとおっしゃっていた、と大場氏からお話があった。

だだっ子のような人を相手にしてもしようがないと思ったが、やはり正しいことをお知らせするのが私の義務だと感じた。

しかし、これはまず塩田氏の認識不足からきていることは、同書61ページにこうあることからはっきりわかる。

「みなさんは、アロマセラピーという言葉を頻繁に耳にしていることでしょう。(私はアロマテラピーという言葉のほうを、より頻繁に聞いたり、見たりする が―高山)。

aromaとはギリシャ語で香りや香辛料の意味で(これは誤り。aromaはもとをたどればギリシャ語にまでさかのぼるが、ルネ=モーリス自身はこれをラテン語とはっきり認識していた―高山)。

セラピーは治療のことです(ギリシャ語にセラピーなどという語は存在しない―高山)。精油を用いた治療法を確立・体系化したフランスの化学者ルネ・モーリス・ガットフォセ(原書ママ)(1881-1950)が、この二つの言葉を合成して創り出しました。現在では、アロマセラピーとは『精油を薬剤として用いた医療』というのが、一般的な定義になっています」。


René-Maurice Gattefosséが創り出したのは、ギリシャ語をもとにしたラテン語で芳香・香辛料を意味するaroma(アロマ)と、同じくギリシャ語のhealingの意味に由来するtherapeia(テラペイア)とを合体させたものであり、どうしてもアロマテラピー(正しくはarɔmaterapi と発音する。日本語のように“l” “r”とを同じに発音する言語と違い、“r”は、舌背を高くした破擦音で出すが、口蓋垂をふるわせるかして発し、théはどうあっても、テ[te、厳密にはつぎにraがくるので、やや口をひらいて tɛと発音するフランス人が多い]でないとおかしい。なぜ、著者はここでいちおうアロマテラピーとしておいて、私はこれこれの理由で、わざわざこれをアロマセラピーと英語読みすることにしますと、そうするわけをここで詳しく説明しないのか。いや、できないのか。

relaxation は、大場編集長によると、塩田氏からこれを「リラクゼーション」と説明する理由はついになかったとのこと。人間は「リラックス」する。その名詞形は「リラクセーション」だ。「リラクゼーション」だとあくまでこだわられるなら、その動詞は「リラックズ」ということになり、さしずめ人間の「クズ」が行うことだろう。

65ページ

「たとえば、サンダルウッド(白檀)の主成分であるα‐サンタロールについて、経鼻吸収した場合と経皮吸収した場合の作用を比較すると、経鼻吸収では興奮作用、経皮吸収では鎮静作用という、正反対の作用を示したという報告があります」。
 その参照資料名をなぜ記載しないのか。いったいいつの研究なのか。私がこれにこだわるのは、ほんもののインド・マイソール産のサンダルウッド油は、現在ではまず入手不可能だからだ。ニセモノのサンダルウッド油での研究結果など不要。ここをはっきりさせてほしい。この本のうしろに載せてある精油会社のサンダルウッド油は、さまざまな意味で、すべてニセモノだ。

76ページ
ルネ=モーリス・ガットフォセがアロマテラピー(塩田氏のいうアロマセラピー)の研究にのめりこむようになったきっかけは、1910年の実験室での爆発事故でした。

とあるが、ルネ=モーリスの孫娘夫妻に確認したところ、この事故は、1915年7月15日のことだったとはっきりわかった。訂正をお願いする。

この日は、 ルネ=モーリスの最初のこどもが生まれる日で、彼も冷静さを欠き、このような事故をおこしてしまったとの話であった。

しかも、身近にラベンダー油を入れた容器などなく、ルネ=モーリスは上半身火だるまになって研究室からとびだし、芝生の上をころがりまわって火を消した。しかし、ひどい火傷を左手、頭部、上背部に負ってしまった彼は、病院にかつぎこまれ、3か月もの入院を余儀なくされ、ずっと医師からピクリン酸による治療をうけていた。

しかも、患部は壊疽化し、ガス壊疽化したとのことだ。

この段階で、はじめてルネ=モーリスはラベンダー油の使用に想到し、それによって一定の効果が得られた(この点、いろいろ疑問が残るが)。事実をしっかり確認して、(調べればわかることなのだから)お書き頂きたい。

医学の知識のない彼が、この療法を体系化し、確立したなど、とんでもない話である。

だいたい、アロマテラピー(塩田氏のアロマセラピー)などということばを一目見ても、これが医学・薬学・比較病理学などとはまったく無縁の、(しいていえば、ぐらいのところだろう)香料化学者・調香師程度の人間、塩田先生のような医学的な知識の塊のような方とは縁もゆかりもない人間の造語だとすぐわからなければヘンである。

2013年7月26日金曜日

梅の花を詠(よ)んだ詩

八世紀、唐の詩人、王維(おうい)の詩の一つ。多才な人物で、詩がみごとだっただけではなく、画も書も巧みで、画家としては、山水(さんすい)画が得意で、南画(柔らかい筆遣いを積み重ねるようにして、淡彩や墨絵で描く画法による画)の祖といわれている。

日本人にもこの画は好まれ、池大雅[いけのたいが。江戸時代の画家]、与謝蕪村[江戸時代のユニークな俳人で、南画、俳画でも有名]らが、この画風に追随した。

この詩は、「雑詩(何ということもなく作った詩)」と題され、さして名高いものではないけれども、私の好きな漢詩の一つとして、ご紹介したい。


君自故郷来(きみ こきょうより きたる)

応知故郷事(まさに こきょうのことを しるべし)

来日綺窓前(きたるひ きそうのまえ)

寒梅著花末(かんばい はなをつけしやいなや)


《通釈》

あなたは、私のふるさとのほうからはるばるいらっしゃったのですから、
きっとなつかしい、わが故郷のたよりをおもちでしょう。
あなたが、ふるさとをお発(た)ちになった日、あなたの家の窓の前の
寒梅(かんばい)は、もう花を開きはじめていましたか、それともまだでしたか



 同郷の友がはるばるやってきたのだから、さぞかし聞きたいことが多いと思うのだが、まず寒中の梅のことを尋ねた詩人。

彼にとっては、故郷の想いは、まず梅の花の姿、香り、色とともにあったのだろう。綺窓は、あやのある美しい窓のこと。

後世の11世紀の北宋のこれまた大詩人で大画家、政治家としても要職を歴任し、波瀾の人生を送った蘇軾(そしょく。蘇東坡[そとうば]とも呼ばれる)は、「王維の詩をじっくり味わうと、詩のなかに画を感じ、またその画をよく見ると、画中に詩がある」と、エスプリの利いた批評をしている。

この詩は「五言絶句(ごごんぜっく)」の形式で読まれている。


2013年7月23日火曜日

アロマテラピー余話

アロマテラピーというコトバは、ラテン語のaroma(芳香、近頃は日本語にもなってしまった“アロマ”)と、therapeia(療法という意味の、もともとはギリシャ語に由来するテラペイアと発音するラテン語)とを一つに組み合わせて新しく造語された、20世紀生まれの新顔のフランス語である。

これらのラテン語から、長い年月をへて、aromaから“arôme(やはり芳香を意味するフランス語)”と“thérapie(これも療法という意のフランス語)”がしだいにつくられた。

しかし aromathérapie、アロマテラピーという新語はarômeとかthérapieとかと違って、フランス人のルネ=モーリス・ガットフォセという香料化学者で調香師であった人物が、「だしぬけに」、「人為的に」急造したコトバである。

この「アロマテラピー」が生まれるにあたって、一つの精油、すなわちラベンダー(Lavandula angustifolia var. angustifolia)の精油が重要な役割を果たしたことは、いまや伝説的な話にまでなっている。

これに関して、いくつか考えることがある。

◎研究室で、かなり大きな爆発事故をおこし、病院にかつぎこまれ、火傷を負った部分が壊疽(えそ)状態を呈するまで、どれほどの時間がかかったか。

◎また、壊疽をおこした部分に入院して2~3ヶ月後にラベンダー油を塗布したらしいが、火傷になった直後ならともかく、そんなに時間が経過して、ガス壊疽状態にまでなった患部に、果たして伝えられているほどの「めざましい効果」がほんとうに見られたのか。痕も残らなかった? それは到底信じられない。

◎「研究室で、彼がちょっとした爆発事故をおこし、片手に火傷を負ったが、そこにあった容器中のラベンダー油にその手を浸したところ、きわめてスピーディーに、痕も残らず火傷がなおった」という、いままで巷間伝えられていた話は、まったくの嘘だったことは、肉親(ルネ=モーリスの孫娘夫婦)の証言で明らかになっている。しかし、この夫婦も、その現場に居合わせたわけではない。すべては、ルネ=モーリス・ガットフォセの息子の故アンリ=マルセル・ガットフォセ博士からの伝聞であり、また聞きのまた聞きである。だから、夫妻のことばも100%信じるに足りるものではない。

◎2~3ヶ月も経ってからラベンダー油を患部につけたというが、そのラベンダー油が最初から病室においてあったはずはない。とすれば、正確なところ、ラベンダー油の適用をいつ、どうして思いついて、病室にまでもってこさせたのか。また、その精油の使用をそれまでピクリン酸を使って手当していた病院医はなぜ許可したのか。そのわけを知りたい。孫娘夫婦(モラワン夫妻)は、その辺をあいまいに答えていた。もっともっと、キッチリ、あまさず聞き出しておくべきだった。ここは、まさに私の責任だ。
この「火傷のアクシデント」については、これ以外にも確認しておくべきだった、と思うことがあるが、これについてはここでやめておこう。

しかし、28年前に私が初めて体系的にこの療法を日本に紹介したときは、この自然療法の提唱者、René-Maurice Gattefossé の名前がなんといっても無名人の悲しさで、その年々の話題を集めて解説した本(『知恵蔵』とか『現代用語の基礎知識』といった)でも、このアロマテラピー(アロマセラピー)の創唱者の名前を、有名な国立大学教授までが、ルネ=モーリスの名はともかく、ファミリーネームのGattefosséを、「ガテフォゼ」、「ガットフォス」、「ガット・フォス」などと平気で書いていた。いまでも、その残党がネット上などに生き残っている。

そして、ルネ=モーリスが、「比較病理学者」だったなどと解説している「識者」も多かった。

恐る恐るご注意申し上げると、「てめえ、いちゃもんつけるのか!」と、さすがに大手新聞社様の貫禄たっぷりにスゴマれたりもした。

でも、「自分たちは何でも知っている。何一つ誤ちは犯さない」という、その編集者様の満々たる自信に、うらやましさも覚えた。

しかし、aromathérapie(芳香療法)などというコトバ一つとってみても、 これが医学者とか薬学者とか、あるいは「比較病理学者」などが新しく開発した療法につける名前だと思うほうがフシギである。そんなささいなことを指摘してみてもつまらないから、私はいつも違和感を覚えながら、ただ「アロマテラピー」とだけいっていた。

ま、そんなことがCMなどで「アロマの香り」などというヘンテコなコトバを流させてしまった原因かもしれない。