2013年7月26日金曜日

梅の花を詠(よ)んだ詩

八世紀、唐の詩人、王維(おうい)の詩の一つ。多才な人物で、詩がみごとだっただけではなく、画も書も巧みで、画家としては、山水(さんすい)画が得意で、南画(柔らかい筆遣いを積み重ねるようにして、淡彩や墨絵で描く画法による画)の祖といわれている。

日本人にもこの画は好まれ、池大雅[いけのたいが。江戸時代の画家]、与謝蕪村[江戸時代のユニークな俳人で、南画、俳画でも有名]らが、この画風に追随した。

この詩は、「雑詩(何ということもなく作った詩)」と題され、さして名高いものではないけれども、私の好きな漢詩の一つとして、ご紹介したい。


君自故郷来(きみ こきょうより きたる)

応知故郷事(まさに こきょうのことを しるべし)

来日綺窓前(きたるひ きそうのまえ)

寒梅著花末(かんばい はなをつけしやいなや)


《通釈》

あなたは、私のふるさとのほうからはるばるいらっしゃったのですから、
きっとなつかしい、わが故郷のたよりをおもちでしょう。
あなたが、ふるさとをお発(た)ちになった日、あなたの家の窓の前の
寒梅(かんばい)は、もう花を開きはじめていましたか、それともまだでしたか



 同郷の友がはるばるやってきたのだから、さぞかし聞きたいことが多いと思うのだが、まず寒中の梅のことを尋ねた詩人。

彼にとっては、故郷の想いは、まず梅の花の姿、香り、色とともにあったのだろう。綺窓は、あやのある美しい窓のこと。

後世の11世紀の北宋のこれまた大詩人で大画家、政治家としても要職を歴任し、波瀾の人生を送った蘇軾(そしょく。蘇東坡[そとうば]とも呼ばれる)は、「王維の詩をじっくり味わうと、詩のなかに画を感じ、またその画をよく見ると、画中に詩がある」と、エスプリの利いた批評をしている。

この詩は「五言絶句(ごごんぜっく)」の形式で読まれている。


2013年7月23日火曜日

アロマテラピー余話

アロマテラピーというコトバは、ラテン語のaroma(芳香、近頃は日本語にもなってしまった“アロマ”)と、therapeia(療法という意味の、もともとはギリシャ語に由来するテラペイアと発音するラテン語)とを一つに組み合わせて新しく造語された、20世紀生まれの新顔のフランス語である。

これらのラテン語から、長い年月をへて、aromaから“arôme(やはり芳香を意味するフランス語)”と“thérapie(これも療法という意のフランス語)”がしだいにつくられた。

しかし aromathérapie、アロマテラピーという新語はarômeとかthérapieとかと違って、フランス人のルネ=モーリス・ガットフォセという香料化学者で調香師であった人物が、「だしぬけに」、「人為的に」急造したコトバである。

この「アロマテラピー」が生まれるにあたって、一つの精油、すなわちラベンダー(Lavandula angustifolia var. angustifolia)の精油が重要な役割を果たしたことは、いまや伝説的な話にまでなっている。

これに関して、いくつか考えることがある。

◎研究室で、かなり大きな爆発事故をおこし、病院にかつぎこまれ、火傷を負った部分が壊疽(えそ)状態を呈するまで、どれほどの時間がかかったか。

◎また、壊疽をおこした部分に入院して2~3ヶ月後にラベンダー油を塗布したらしいが、火傷になった直後ならともかく、そんなに時間が経過して、ガス壊疽状態にまでなった患部に、果たして伝えられているほどの「めざましい効果」がほんとうに見られたのか。痕も残らなかった? それは到底信じられない。

◎「研究室で、彼がちょっとした爆発事故をおこし、片手に火傷を負ったが、そこにあった容器中のラベンダー油にその手を浸したところ、きわめてスピーディーに、痕も残らず火傷がなおった」という、いままで巷間伝えられていた話は、まったくの嘘だったことは、肉親(ルネ=モーリスの孫娘夫婦)の証言で明らかになっている。しかし、この夫婦も、その現場に居合わせたわけではない。すべては、ルネ=モーリス・ガットフォセの息子の故アンリ=マルセル・ガットフォセ博士からの伝聞であり、また聞きのまた聞きである。だから、夫妻のことばも100%信じるに足りるものではない。

◎2~3ヶ月も経ってからラベンダー油を患部につけたというが、そのラベンダー油が最初から病室においてあったはずはない。とすれば、正確なところ、ラベンダー油の適用をいつ、どうして思いついて、病室にまでもってこさせたのか。また、その精油の使用をそれまでピクリン酸を使って手当していた病院医はなぜ許可したのか。そのわけを知りたい。孫娘夫婦(モラワン夫妻)は、その辺をあいまいに答えていた。もっともっと、キッチリ、あまさず聞き出しておくべきだった。ここは、まさに私の責任だ。
この「火傷のアクシデント」については、これ以外にも確認しておくべきだった、と思うことがあるが、これについてはここでやめておこう。

しかし、28年前に私が初めて体系的にこの療法を日本に紹介したときは、この自然療法の提唱者、René-Maurice Gattefossé の名前がなんといっても無名人の悲しさで、その年々の話題を集めて解説した本(『知恵蔵』とか『現代用語の基礎知識』といった)でも、このアロマテラピー(アロマセラピー)の創唱者の名前を、有名な国立大学教授までが、ルネ=モーリスの名はともかく、ファミリーネームのGattefosséを、「ガテフォゼ」、「ガットフォス」、「ガット・フォス」などと平気で書いていた。いまでも、その残党がネット上などに生き残っている。

そして、ルネ=モーリスが、「比較病理学者」だったなどと解説している「識者」も多かった。

恐る恐るご注意申し上げると、「てめえ、いちゃもんつけるのか!」と、さすがに大手新聞社様の貫禄たっぷりにスゴマれたりもした。

でも、「自分たちは何でも知っている。何一つ誤ちは犯さない」という、その編集者様の満々たる自信に、うらやましさも覚えた。

しかし、aromathérapie(芳香療法)などというコトバ一つとってみても、 これが医学者とか薬学者とか、あるいは「比較病理学者」などが新しく開発した療法につける名前だと思うほうがフシギである。そんなささいなことを指摘してみてもつまらないから、私はいつも違和感を覚えながら、ただ「アロマテラピー」とだけいっていた。

ま、そんなことがCMなどで「アロマの香り」などというヘンテコなコトバを流させてしまった原因かもしれない。


2013年7月22日月曜日

サンダルウッドについて

サンダルウッド(ビャクダン)は、ふしぎな芳香植物である。これは樹高の低い木で、植えてから(あるいは芽を出してから)80年から90年という樹齢で一生を終える。

ここでこの植物を取り上げたのは、この精油は、いま市販されている各種のニセモノ精油のチャンピオンクラスの一つなので、人間の悪知恵の例として興味深いこと、また実際にこのテラピーに携わっている方がたのご参考に多少ともなればと願ってのこととご了承頂きたい。

サンダルウッド(Santalum album)は、ビャクダン科の一科一属一種の木本植物である(と、断言してしまうのは、厳密には少し問題があるが)。

この木は、緑の葉をつけ、光合成をするにもかかわらず、先に吸盤のついた吸根をのばし、それをほかの植物の根部に吸い付かせ、寄生した植物からもチャッカリ栄養分を頂戴する。この作業は、幼樹のころからすぐに開始する。幼いころは、イネ科・アオイ科の植物からこの寄生(正確には半寄生)をはじめ、生長するにしたがって、寄生対象となる植物を最高140種にまで拡大する。

他人が努力して地中から吸い上げた養分を横取りするなんてけしからん植物みたいだが、そうしないとサンダルウッドは自力だけでは生育できないのである。半寄生植物の宿命だ。

ユーカリなどは、有毒物質を根から分泌して、周囲のほかの植物を殺してしまう(まあ結果的にはサンダルウッドと同じことになるが)のだから、さらにひどいヤツということになるかも知れない。けれども、生きるために(個体として、また種族として)は、やむを得ない所業なのだ。責任はすべて自然にあり、それを創りだし、司る神様にあるのだろう。

そして、その植物に直接寄生して、それを食って、草食動物は生きるエネルギーを得るし、その草食動物をエサにして肉食動物は生命をつなぎ、子孫へと命のバトンタッチをしている。

でも、それは彼らとしては最低限度の「殺生行為」であって、私が彼らの行いを裁く立場にあったら、彼らの行為の罪を問うことはしまい。そもそも人間がどんなデタラメなことをしているか、よくわかっているからである。

サンダルウッドの、ことに心材部分の香りは形容しがたいほど、エキゾチックでオリエンタルなものと西洋人には感じられるらしい。心材から発するこの香りは、この樹木の内部で産生されるエッセンスが放つものである。

サンダルウッドの自然生産地は、インドのカルナータ州で、ここにサンダルウッドの名産地、マイソールがある。この州で、インド産サンダルウッド油の90%が生産されている。

しかし、長年の伐採のせいで、サンダルウッドの原木数が激減してしまったのでいまではマイソール産のホンモノの精油は、普通の商業ルートでは、まず入手できなくなってしまった。

インド政府がほとんどすべての原木を管理下におき、(原木毎にナンバーがつけられている)、盗伐・精油密輸などを厳重に取り締まっているためである。

そこで、現在我が国などで販売されている「サンダルウッド油」はまず例外なくニセモノとみてよい。本来のサンダルウッド油は、

α-サンタロール(アルコールの一種)45-60%
β-サンタロール(アルコールの一種)17-30%
エピ-β-サンタロール(アルコールの一種)4.3%
トランス-β-サンタロール(アルコールの一種)1.6%
シス-ランセオール(アルコールの一種)1.2%
α-サンタレン
β-サンタレン  (αβ二つ合わせて)10% サンタレン類はいずれもセスキテルペン類(C15)
エピ-β-サンタレン 6%
テレサンタラール(セスキテルペナール[アルデヒド類])

などからなっている。

現実に販売されている「サンダルウッド油」は、アミリス油、アラウカリア油、シダーウッド油、コパイバ油、はてはヒマシ油(これはそもそも精油ではない。脂肪油である。下剤だ!)がたいてい加えられているばかりか、流体パラフィン、グリセリルアセテート、ジエチルフタレート、ベンジルベンゾエート、ベンジルアルコール、ジプロピルアルコールも添加されているものが大半といってまちがいない。

あなたは、本もののサンダルウッド油を嗅いだことは、まだあるまい。一度本ものを嗅げば、市販のものとの差がどんなに大きいか一驚するだろう。一言でいえば、市販のインチキ品に比べてはるかにマイルドな香りなのだ。

業者が、マイソールの原木と同一植物を中国の雲南に、インドネシアに、オーストラリアその他の土地に植えただけだと言い張ってもだめだ。京野菜を関東地方に植えても、決して同じ味の、同じ歯ごたえの、同じみずみずしいあの京野菜には絶対にならないのと同じことで、植物学的にどうのこうのといおうと、嗅覚の世界、味覚の世界ではニセモノであるとしかいいようがない。

前記のものは、各種グレードのインチキ品を本ものだと言って売っているから犯罪的だといってまちがいないが、そんなことは最初からせず、“サンデラ、Sandela”とか“サンダローア、Sandalore”とかいう商品名で、最初から「ハイ、合成品でございます。その代りうんとお安くしておきまっせ」とヘラヘラ笑いながら、サンダルウッド油の類似品を販売している業者もいる。

それで満足できる人には、とやかくいうまい。
しかし、こんなしろものは絶対にアロマテラピーでは使用してはならない。百円ショップの「アロマオイル」と同じだ。

付記

・本もののマイソール産のサンダルウッド油は、いまはもう商業的には入手できないと考えておいてほしい。

・ アミリス油(Amyris balsamifera)は、それなりの効用があるちゃんとした精油なのに、(「84の精油」参照)これに「ウェストインディアンサンダルウッド油」などと詐欺的な名称をつけるのは道義的に許されぬ行為だ。

・オーストラリアンサンダルウッド(Fusanus spicatus)油なるものがある(別名Eucarya spicata)。
これもニセモノの一種だったが、いまではこれも哀れや乱伐の犠牲となって、現在ホンモノ同様入手不可能になってしまった。

・サンダルウッド油のニセモノが作りにくいのは、主成分のα,β-サンタロールの合成が困難なためだ。そこで、香りがかなり似たトランス-3-イソカンフィルシクロヘキサノールが一般に利用されているが、その薬理効果の問題は措いても、このせいで市販のサンダルウッド油が本もののサンダルウッド油の香りになかなか近づけないことも知っておいて欲しい。

笹餅(ささもち)の思い出

私は、ここ30年以上も「餅」というものを口にしたことがない。食べたいという気持ちになった経験も、まるでない。なぜだろう。

毎日、ほとんど飢えていた6歳、7歳、8歳のころには、正月や祭礼の日などに裕福な家に遊びに行ったとき、おこぼれのように餅を食べさせてもらえることがあった。

あのときほど、餅のおいしさを、総じて食べ物のうまさを感じたことはなかった。

聖書を読んで、「人はパンのみにて生くるにあらず」などというキリストのことばに接しても、「そりゃそうだ。すいとんや雑穀・雑草入りのめしやマメや、たまには餅なんていうご馳走を口にしたりして生きてるんだもんな」と、キリストのことばの意味を百も承知のうえで、ふらちでへそまがりな言葉を言い散らしていたのが敗戦後の私だった。

食料事情を含めて、日常生活の苦しさは、敗戦後、数年間がピークだった。

リンゴを盗んでしまったことを悔いてみずから縊死した先生が使用したフンドシが汚れていたのも、ろくな石けん一つなかったからだ。まるで泥が混じっているのではないかと思われるような石けんだった。洗濯板をたらいなどに立てて奥さんが洗濯物をゴシゴシこすっても汚れが落ちるどころか、かえって汚れが増すようにさえ思われる代物だった。

機敏な商人たちは、米国の兵士たちがクチャクチャ噛んではぺっと吐き捨てるチューインガム(こどもたちは、チューリンガムなどと呼んだ)のニセモノを作って、こどもたちに売りつけた。

その偽ガムの素材は、いまもってわからない。

ただ、本もののガムとの決定的なちがいは、ニセモノのガムには、甘味もミント風味も、まるっきりなかったことだった。

食料事情は、自分の家が米作農家だったり、親類縁者の家がそうであったりする場合はべつだったろう。せいぜい、現代のように新鮮な魚介類が口にできなかったという程度の記憶しかない人びともいると思う。でも、私のような境涯の人間は、多かったはずだ。そうだったからこそ、有名な「食糧メーデー」などというものがおきたのだ。

話は変わるが、植物のなかには、それ自体は食物にならないけれど、食物といろいろなことで「相性(あいしょう)」がよいものがある。その一つがササだ。また、タケもそうである。どちらもイネ科タケ亜種に属する植物で、人間の都合で区別されているだけのものだ。生えてきた時についていた皮が早く剥がれ落ちる種類をタケと称し、皮が一年もの間、本体からとれずに残っているものをササと呼ぶだけのことであり、いろいろ種類はあってもいずれもごく近縁だ。

たとえば、このタケの皮で握り飯など包むと保(も)ちがよいらしい(本当にそうかどうか、私自身で実験したことはないし、何か皮から分泌されたという学者の文章に接したこともないので、なんともいえない)。

ササの葉も同様の作用があるようだ。

私のすごしていた信州北部は、たぶん新潟文化の産物の一種と思うが、二枚の大きめのササの葉の間に餅をはさんだ笹餅というものがあった(ほかの地方にも、きっと同様な食品があったに違いない)。餅がおいしいだけでなく、餅にササの香りが移って、それがまたたまらなく魅力的だった。

前日に大雪が降った休みの日だった。きのうの空がウソのように晴れ渡って、陽光がまぶしく、暑ささえ覚えた(オーバーではない。何ごとも比較の問題で、南極で観測をした従兄弟によると、摂氏3度ぐらいになると極地で勤務する隊員たちは「暑い、暑い」と、みんな半袖姿だった。そのときの写真も見せてもらった)。

私は陽気に誘われて、家の外に出た。すると、年齢はまだ若い一人の男性の盲人が杖をたよりに苦労して歩いていた。無理もない。大雪が道に積もると、いままで杖の感触で頭の中に作り上げてきた世界がまるで変わってしまうのだから。

私は思わず、彼のもとに走り寄って「兄(あん)ちゃ。どこ行くの? 駅?」と尋ねた。
盲目の青年がうなずくのを見た私は、「じゃ、いっしょに行こ」と、青年の手をとった。青年の表情はあまり変わらなかった。

でも、彼は「ありがとう」と言って、杖を地面から離して胸に抱きかかえるようにした。

そして、すべてを私にまかせた。

私は、その盲人ができるだけ歩きやすい道をゆっくりと案内した。2人の間には、これといって共通の話題もなかったので、私はちょっと『リンゴの唄』などを口ずさんだ。

青年は嬉しかったのだろう。その蒼白だった顔は、灯をともしたランプの火屋(ほや)のように、ぽっと赤らんだ。

いくつかの横町を気をつけながら、私は彼を案内しつづけた。間もなく、私たちはその町の駅に着いた。

駅の表側に作られた駅の待合室に、彼と私とはいっしょに入った。彼は座席に腰をおろした。

「じゃ、さよなら」と言って、青年に声をかけて、私は彼から離れていこうとした。そのとき、その盲目の青年はだしぬけに「ちょっと」と私に声をかけて、もっていた小さい袋から笹餅を一つとりだして私にさしだした。

私はびっくりした。盲目の人のそんなところから笹餅などというご馳走が出現するなどとは、まるで想像もしていなかったからだ。私は、「そんなつもりであなたを案内したんじゃない」などと、断れなかった。お礼をいって受け取ってしまった。嬉しかった。

外でものを食べたりするのは、見よいものではない。しかし、空腹をかかえて歩いた私は、とうとうガマンできずに笹の皮をむいて、餅にかぶりついてしまった。あっという間もなく、香りのよい笹餅は私の胃の腑に納まった。

そのとき、私はハッとした。「これは、あの目の見えない人の弁当だったんじゃないか。それをオレは食ってしまったんだ。どうして、これをうけとるとき、そのことを考えなかったんだろう。ああ、オレは思いやりがなかった!」と、ひどい後悔に襲われた。

私は、べつにあの見ず知らずの人にとくに親切にしようと思って、あんなことをしたわけではない。私があの盲目の青年の道案内をしたのは、いわばちょっとした気まぐれだからだった。だから、私の後悔の気持ち、あの人の弁当を奪ってしまったという自責の念が、ひとしお強かったのだろう。どだい、私は冷静に自己を分析してみて、親切心など人一倍少ない方に属するだろうとさえ考えている。

かなり前に、ある小説の登場人物の一人が、「近頃は、他人に親切にすることを、まるで損をするみてえに思うヤツらが増えやがって」(この人物は江戸っ子という設定になっている)とこぼす場面を読んだことがある。

でも、私はこの人物に言いたい。

「いいえ。そんなことはありませんよ。親切な人間はまだまだたくさんいます。縁もゆかりもない他人のために、自分の身を犠牲にしたり、自分の知識を惜しげもなくほかの人に与えたりして、その人の幸福を願う人びとは決して少なくはありません。

列車や飛行機のなかで具合の悪くなった人の手当や介護などにあたる、たまたま同乗した医師・看護師は一円だって礼金なんて受け取りませんよ。……病人に手を出さない人間は親切心がないからじゃない。そのための技倆や知識などがもともとないからです。ミソもクソもいっしょにして、そんなことをおっしゃるものじゃありません」と。

でも、あの笹餅の味と香りとは、いまもって忘れられない。それでいながら、私が成人後は餅をまったく口にしなくなってしまったのは、いったいなぜなのだろう。

2013年7月17日水曜日

私が国鉄をやめたわけ

私は、かつて国鉄などというところに就職した。そして、二年弱で退職した。

その理由は、「想像も及ばぬ国鉄の『封建的体質』に嫌気がさし、さらに自分の地位の不安定さ、あいまいさに耐えられなかった」からだ、と一応同僚や関係者などには説明した。

上司たちは寄ってたかって、さんざん私を引き留めようとした。私は自分が優秀な人材だったからだ、などとウヌボレるつもりは全然ない。ただ、英語、フランス語の技術文献を自在に読みこなしたり、外国の主要鉄道組織(国によっては、国鉄が存在しないところも多々あった。その場合は大規模な私鉄をそれに準じるものとして扱った)と国際会議を開く際のフランス語圏諸国からの書簡や文献などの翻訳や、場合によっていは通訳係などをつとめる職員がきわめて国鉄に少なかったためだろうと思う。

だから、詳しいことは省くが、私は23号俸という高い給料を支給されていた。
同期に国鉄に入った支社採用の人たちは17号俸という月給額だった。

私は、自分がそうした待遇を受けていること自体、逆に嫌でたまらなかった。17号俸組の私を見る目が、私の心を痛めつけたのだ。

私が国鉄を辞めた理由。それは前述のことももちろんあった。しかし、もっともっと私の心に深刻な衝撃を与えたことがある。そのほうが、人にはいえない大きな理由だった。

何かの折に、同期に国鉄入りした17号俸組の一人の職員が、私が東京外語大学卒と知って、「あなた、ドストエフスキーの『カラマゾフの兄弟』を読んだことがありますか」と、尋ねてきた。

私は、あのとき、「いやあ、私はフランス語学、文学専門なものですから・・・・・・」と、逃げればよかったのかもしれない。でも、ドストエフスキーのこの著書の、およそ日本語になっていない訳文と(私はロシア語は学んでいたが、この本は訳書に頼らざるを得なかった)、また難解なキリスト教神学と格闘しながら(ドストエフスキーは、カトリック神学もプロテスタント神学も、もとよりロシア正教会の神学にも精通している)、またフランス文学的な心理分析とずいぶんかけ離れたロシア人的な心理分析手法にとまどいながら、と同時に推理小説を相手にしているような、著者が絶えずかけてくる謎を解くような異様な興味をもってこのドストエフスキーの訳書を読んでいた私は「ええ、ありますが」と答えてしまった。

すると彼は「では、あの本のイワンの語るレーゼドラマの『大審問官』の、復活したキリストにたいする問いについて、どう考えますか」と聞いてきた。ズバリ、私がいちばん悩んだところを突いてきたのだ。

私は、かつて「おとなにはなるまい」と考えたこともあった。しかし、人間はどうしても薄汚い周囲の空気を吸い、いやでも汚らしい「小ずるいおとな」にならざるを得ない。いまなら相撲でいう「変化」をして、この人間にたいして「うん。でもね、ドストエフスキーは一言もあの男を『復活したキリスト』とは書いていないんですよ」などとあやなすかも知れない。

でも、これは卑劣な手だ。たとえ著者自身がそう書いていなくても(事実書いていない)。

その90歳になんなんとするカトリックの守護者をもって任じる16世紀のスペインの大審問官、100人もの異端者をセビリアの広場で焼き殺したばかりの大審問官自身をはじめ、貴紳のつどっているその広場に理由も不明のまま、むかしむかし刑死して昇天した一五世紀後、だしぬけに出現したキリストらしき男、そして福音書に書かれたキリストさながらに死んだ人間を蘇らせたり、盲目の人に新たに光を与えたりする男を見れば、誰もがその人物を「復活したキリスト」と信じるのは当然だ(もっとも、キリスト教世界では、やがてはキリストが復活するという信仰は根強いけれども、真のキリストが再臨するのに先立って、偽のキリストが出現するという考えかたがあり、ヒトラーやムソリーニなどがそれに擬せられたこともあったと聞く)。

亀山郁夫とかいうロシア文学者と称する男は、「私は、この人物が偽キリストだったのかも知れないと思う」などとバカらしいコトバを吐いている。

 しかし、かりにその人物が偽キリストであろうと、人びとがそれを本ものだと信じれば、偽も真もヘッタクレもない。同じことだ。本もののキリスト教徒であれば、大きな問題なのかも知れないが。
…ともかく大審問官はその男を捕らえさせ、牢獄にぶちこみ、深夜そこを訪れて自ら男を尋問した。
この両者の対決については、訳書にあたってご覧いただきたい。

さて、私はその職員にたいして、「私は、大審問官の言い分は、筋が通っていると思いますよ。だって、空腹で砂漠をフラフラとさまよっているキリストに悪魔が石をパンに変えてみろといったんでしょう。すると、キリストは『人はパンのみにて生くるにあらず』と答え、人間は神のことばで生きるのだと付け加えたと私は記憶しています。

でもね、神のことばを食って生きている人間なんて私は見たことは一度もないんです。ごはんやパンや菓子などを食って、現に人びとは生きているじゃありませんか。神父だの牧師なんていう例外はあるかも知れないけどね」とチャカすように言った。

 さらに、私は「福音書に、キリストがカゴの中に少ししか入っていないパンを何千人分にもふやしたという話がありますね。あの手をなぜ人々に平和主義者キリストは教えて歩かなかったんでしょう。キリストなら石をパンにすることなんて容易だったはずだ。

それをキリストがしなかったばかりに、人殺しが行われたり、戦争が起こったり、革命が勃発したりして人の血が流された。すべての世の悪事の源は神にあり、キリストにあると私は思っている」と、意地悪く言った。

さらに、私はつけ加えた。「それだけじゃない。高いところから飛び降りてみろと悪魔が言ったら、神を試すものではない、なんてキリストは言って逃げている。私は、キリストはね、本当は神などあまり信じちゃいなかったとさえ思っている。これはドストエフスキーとは直接関係ないけどね。だって、いくつかの福音書に十字架にかけられたキリストが『エリ、エリ(あるいはエロイ、エロイ)ラマサバクタニ』(父よ、父よ、どうして私をお見捨てになるのですか)と苦しがって、わめいているじゃありませんか。本当に神を信じている人間が吐く言葉でしょうかね、これは」。

その同僚は、私に何もいわなかった。でも、私を見つめるその目には、何か絶望感があったような気がする。むろん、いまにして思えば、だが。私は相手をチャカしすぎたと思って、口をつぐんだ。彼も、ずっと黙りこくっていた。

その数日後、彼が行方不明になったという噂が広がった。そしてさらに何日かして、その死体が熱海の自殺の名所、錦ヶ浦に浮かんだという話を聞いた。彼はキリスト教徒だったのだろうか。だとしたら、自殺はしまいとも思った。いや、これはきっと事故なんだとムリに思おうとした。

あの同僚は、どういう気持ちだったのか。ひょっとしたら、こんな私に彼は真剣に救いを求めていたのだろうか。

嫌な嫌な気分になってしまった私だった。

まるで、人殺しをしてしまったような気持ちだった。国鉄をやめてしまおうと考えたきっかけは、これだった。

私は、このことはいままで誰にも言ってこなかった。私のキリスト教理解も、『カラマゾフの兄弟』の理解も、いま考えれば浅薄極まるものだった。

キリストは人間にパンではなく「自由」を与えた。しかし、自由とは恐ろしいものだ。この話は長くなるからやめよう。それは本当に神の愛とイコール記号でつながるものだろうか。

サルトルは、「人間は自由の刑に処せられている」と言う。この言葉については、人間があらゆる面で「不自由」さを作り出して、万事をそのせいにしてその中でホッとしているのを見れば、誰しもサルトルの正しさを納得するだろう。

明石にて講演を行います


2013年9月1日 兵庫県明石市にて講演を行います。

講演詳細や申し込みについて  (facebook)

みなさまにお会いできるのを楽しみにしております。高山林太郎



2013年7月12日金曜日

塩田清二 著『<香りは>なぜ脳に効くのか』について

タイトルの本の題名は、NHK出版新書から、塩田清二氏(昭和大学医学部教授)が昨年出された本の題である。アロマセラピー学会理事長をつとめている方だそうだ。

たいへんわかりやすく書かれた書物だと思った。「はじめに」の項で、宗教と香り、ないし香(こう)との関係が記されているのも興味深い。

ただ、カトリック・ギリシャ正教に触れるならば、別の部分でもよいから、この両者の終油の秘跡(ひせき)についても述べて頂きたかった。

カトリックでは、人が死んでからその額に香油を塗る。しかし東方正教会ではまだ生きている瀕死の人間の額に香油を塗る。

私は、このほうが「芳香療法」のプロトタイプに、より近いのではないかと思う。なお、東方正教会では「秘跡」とはいわず「機密(きみつ)」と呼んでいる。

まあ、著者の先生がアロマセラピー学会理事長ということもあって、「アロマセラピー」という用語を採用されたのだとは思うが、やはり現代の芳香療法の名付け親であるルネ=モーリス・ガットフォセの作ったAROMATHERAPIEということばの発音に、より近い、「アロマテラピー」を使用して頂きたかった。


ここで、「フランスやベルギーでは長らく医療行為として認められているアロマセラピーですが」ということばがある。どういう根拠に基づいてこう言われるのか。

まず、フランスでは、現在ではアロマテラピーに不可欠な精油は、たとえばパリなどの薬局にはない。また、精油も健康保険が適用されている「薬剤」ではない。フランス・ベルギーの薬局方で、すべての精油が認められているとは、とうてい信じられない。責任あるご発言をお伺いしたい。

また、そのすぐあとに「リラクゼーション」という聞き捨てならないコトバが出てくる。塩田氏は、人間はrelaxすることはご存知だと推察する。これにいちばん近い日本語発音は「リラックス」だろう。

relaxするのは、「くつろぐ、息抜きをする、レクリエーションする等々」にあたる行為をすることだ。

人間には、リラックスは大切だ。けれどもリラッグズする人間はいないはずである。もしいたら、それは人間の「クズ」だろう。

塩田氏はきっと、relaxation という英単語にお接しになったことがないのだろう。一度、ぜひ英和辞典で信頼のおけるものをじっくりと読んでいただきたい。relaxation は、英国と米国とでやや発音が異なる。しかし、リラクゼーションという発音記号が載っている権威ある辞典があったら、ぜひご教示をお願いしたい。人間はリラックスする、だからその名詞形はリラクセーションを措いて存在しない、と思うからである。

このリラクゼーションなる異様なコトバは、はっきりいって大都会の歓楽街で、ヤクザが経営する、いかがわしい不潔なファッションヘルスで作られたコトバだ。アロマテラピストも同断である。これらは英語でもフランス語でもドイツ語でもない。珍無類の日本産のコトバだ。塩田先生のご人格を疑わせないためにも、リラクゼーションは、なにとぞおやめ頂きたい。この本には、何箇所もこのコトバが登場するので、あえて失礼を承知で申し上げておきたい。

香りが脳に及ぼす影響が大きいことは、きわめて興味深い事実である。
たとえば、室町時代あたりから日本で広まった(もとより一部の人間にかぎられているが)香道では、伽羅(きゃら)、羅国(らこく)、真那伽(まなか)、真南蛮(まなばん)、佐曽羅(さそら)、寸聞多羅(すも[ん]たら)の六国(りっこく)の香を一定のルールでたき、一種のゲームとしてそれを鑑賞する(聞香[もんこう]という)のだが、これらのいずれの香にも、それぞれ薬理効果があり、一通りの聞香を終えた人間は、みな心底リラックスするとともに、この上ない、生まれ変わったようなさわやかさを覚える。そして、とくに強調したいのは、この香道の師匠は、いずれも心身ともに健康で、脳を絶えず刺激するせいか、年齢を重ねても、認知症などとは無縁で、長寿を保つ人びとが多いということである。

この香道に立脚して、というか、これを利用したのが秋田大学の長谷川直義先生の聞香療法である。長谷川先生は、この療法で中年女性らの不定愁訴に対処されたと聞く。

日本発のアロマテラピーとして、この話をぜひご解説願いたかった。欧米人も、これに強い興味を寄せている。

今回は、この本の冒頭部のみの感想に終わってしまったが、内容についても追ってじっくり勉強させて頂き、感想を述べさせていただくつもりでいる。