2013年6月27日木曜日

凡人万歳

一定の音を聞くとつねに、一定の色をまざまざと見、一定の香り・匂いを嗅ぐと一定の味覚・視覚・聴覚などありありと(ただ、連想するのではなく、「具体的」に)感じ取る人がいる。

これを共感覚(synesthesia) と呼ぶ。

この感覚をもつ人間は稀にしかいないが、少数ながら昔からいた。
「鋭い音」「黄色い声」
などといっても、私たちがべつに違和感を覚えないのが、その何よりの証拠だ。

芸術家(とくに音楽家)には、この共感覚の持ち主が多い。ロシアの作曲家でピアノ演奏家の『官能の詩』などで有名なスクリャービンは、色光オルガンにより、曲の演奏にあわせて、一種のプロジェクターで、音とともにそれに彼が対応すると感じた色を投写した。彼は、一種の神秘思想家でもあった。

この演奏が終わるやいなや、会場内には拍手と嘲笑とがあい半ばして、ひびきわたったそうだ。

私はそんな感覚の持ち主ではもとよりない。しかし、この人はそうではないかと思う芸術家は何人かいる。

音楽家のルビンシュテイン、ドビュッシー、ラフマニノフ、画家のドラクロアなども、別に根拠はないが、そうだったような気がする。

まあ、これはやはり天才の特権なのかもしれない。でも、私はべつにそれをうらやむつもりはない。ハ長調のミの音を聞いて、口の中が塩気を感じたり、あたり一面がウンコ色に見えたからってどうだというのか。

私は自分が凡人でよかったと思っている。負け惜しみではない。たとえば、前記のようなことが絶えず起こったら、私はたぶん堪えられまい。

それとはちょっと違うのだが、私は、こうも思う。大音楽家、ことに作曲家は、心にひどいバイアスがかかっているだろうから、私のようにモーツァルトを、ベートーベンを聴いても(もちろん特に好きなもの、さして好きでないものもあるが)どれもいいなあと感じることはできまい。

バレエ・リュスのころ、アンナ・パブロワの「瀕死の白鳥」の作曲家、サン・サーンスはやはりこのときに話題を呼んだバレエ「火の鳥」の新進作曲家、ストラヴィンスキーの曲を聞いて、我慢ができず、顔面が蒼白になり、脂汗を全身にかいてほうほうのていで会場から逃げ出した。

でも、私はサン・サーンスもストラヴィンスキーも、それぞれべつの料理を味わうように楽しめる。こうした例を私はいくつも知っている。画の世界でもそうだ。

楽しめる世界をいくつも持っているということは、ステキなことである。前に変人奇人を讃えたが、手前味噌になるかもしれないが、ここで凡人万歳を三唱しておこう。

フランスのアロマテラピーの現状について

越中富山の反魂丹(はんごんたん)
鼻糞丸めて万金丹(まんきんたん)
それを呑む奴ァアンポンタン
 
むかし、富山は薬を製造する産業が盛んだった(まあ、いまもそうだろうが)。その薬は主として大坂に流れ、大坂には薬問屋がたくさんできた。薬品会社が関西に多いのは、そうした歴史があるからだ。富山大学の薬学部が有名なのも、それに関連がある。
 
上掲の俗謡も、そうした背景から生まれた。
 
むかしは、いまのように薬品を、その原料などを国家で定められた基準に従って薬屋が作るなどということは決してなかった。
 
農民や山林の民などは、そんな薬もほとんど買えなかったから、身近な薬草(ドクダミ、ゲンノショウコ、オトギリソウなど)をさまざまに工夫して薬用した。
 
私もこどものころ、栄養不足が原因の免疫不全からか、やたらに体に膿をもつ腫れ物ができた。
 
母は、そんな私の体中の患部にドクダミを焼いてベトベトにしたものを貼りつけた。すると、膿が排出されて、できものがなおるのだった。
 
『アロマテラピー図解事典』( 岩城都子[松田さと子]著、高橋書店刊)という本を書店で立ち読みしたところ、「アロマテラピー先進国であるフランスでは、ドクターが医療現場で精油の効果効能を利用、クライアント(ペイシェントというべきではないか-高山)の治療に使われています」とか、「医療の現場で利用されている」とかと書かれている。
 
アロマテラピーの発祥の地であるフランスでは、医師による『メディカルアロマテラピー』が確立。精油は薬局で処方され、内服も認められている。予防医学のカギを握るものとして普及している」とかといった、私には信じられないようなことが述べられている。
 
これは、考えにくいことだと私は早速これを刊行した書店にたずねた。
 
書店では、英国在住の著者に問い合せてくれた。仏人医師のひとりのその著者への答えとしてこの本の著者は私に以下のように知らせてきた。
To make things simple and clear, I prefer to let you know that medical aromatherapy is mainly practiced by doctors.(MDs) in private practices than in hospitals.
 
In some hospitals, the way essential oils are used is more as a side therapy for the patient's comfort or well being, but not really for the medical treatment itself.
 
In private practices, it is very different, and hundreds of private MDs use essential oils for medical situations, mainly infection (infectious ではないかな?-高山)diseases, with great success.
つまり、病院よりも市井の開業医などが私的にアロマテラピーを行っていること、病院でもいくつか、このテラピーを行っているといころはあるものの、主たる治療ではなく、あくまで患者の気分をよくするサイド療法として行っていること、そして、病院ではなく、プライベートにアロマテラピーを実践している数百名の医師たちは、精油類を感染症に使用して、大きな成功を収めている、というわけである。
 
すると、いくつも疑問が生じる。
 
まず、第一に、フランスの薬局方では、精油の使用を認めているのかということ。
 
民間医療は、各人が自分の責任で家族に施してもよいだろう(しかし、公的な病院を受診しなければならぬ疾病まで家族だからという理由で自己流の療法を施し、その結果重大な結果を生じさせたら、刑事責任が問われるはずである)。
 
つぎに、薬局方で精油の使用が認可されているなら、その精油はどんな基準を満たしているのかということ。(そんな医薬品グレードの精油が本当に存在するのか? どんなメーカーがどんな基準に従って作ったものか? AFNOR規格などの基準を満たしたといっても、それが医療品グレードということとは、全く別のことだ。この規格はいくつかのマーカー成分の存在と分量を確認するだけのものに過ぎない)。
 
精油のように、年々歳々その構成成分が変化するような不安定なものを、誰が、どんな根拠で、「薬剤」としてフランス全土の病院・医院で利用するのを許しているのか。
 
そんなことで、医師は責任ある治療ができるのか。日本だったら絶対に考えられないことだ。そこをぜひ問いたい。そもそも、そんな完璧な医薬品グレードの精油が作れる会社がもしあったら、世界中のアロマテラピー関係者は、それしか用いなくなるだろう。
 
だいたい、ジェネリック医薬品すら、それでは責任をもって治療にあたれないという医師も日本にはたくさんいる。フランスでは、そんな初歩的なことも医師は考えないのか。
 
中医学(中国伝統医学。しかし、漢方医学は中国伝統医学から枝分かれした別物となっている)やアロマテラピーなどは、いまの公的に是認されている現代医学とは根本的に異なった医療哲学のうえに成り立っている。その方針で治療にあたるというなら、筋が通っている。
 
だが、何でもかんでも効けばいいのだろうという考え方は危険だ。
漢方製剤(元来は中国伝統医学の処方)を販売している某大手会社のように、漢方製剤を用いるなら、本来は中国伝統医学理論に基づいて患者にそれを投与しなければならない。
 
それなのに、その製薬会社は、中国伝統医学から生まれた漢方製剤の使用にあたり医師たちにその理論を一切説かなかった(いまはどうなっているのか知らないが)。そのために、多くの死者を出す事態を招いた。患者の中には小柴胡湯エキスにより間質性肺炎という病気で死亡するものが続出したのである。この事件とは関係ないが、あの美空ひばりもこの間質性肺炎で亡くなっている。
 
三流週刊誌(私は週刊誌はすべて三流と考えている)は、「漢方薬に副作用がないという神話が崩れた!」と、騒いだ。
 
バカ記者の無知はいまさら救いようがない。それはどうでもよいが、フランスで、そんなに無原則的にアロマテラピーを現代医学に併用しているとすれば、フランスは現代医学を実践している国々のなかで、もっとも遅れていると言わざるを得ない。
 
英国の医師で「自分はアロマテラピーを行っている」などという人間は皆無だ。英国の医師は賢明だからだ。
 
フランスの薬局方で精油が認められているというなら、何の精油と何の精油か、そこを聞かせてもらおう(まさか精油ならなんでもOK、そんなことはなかろう)。そして患者にその内服もさせるというなら、そのアロマテラピーで万一事故が発生した場合、その医師はどんな処分を受けるのか、逮捕され実刑を宣告されるのか? 医師免許を剥奪されるのか? そこまではっきり調べてからものを書くべきだろう。
 
アロマテラピーを、ただのファッショナブルなおしゃれとして、香水利用の延長線上で考えているような人間は、くだらぬ本など出すべきでない。多くの人を誤解させるもととなる犯罪的な行為だと私は断じる。反論があるならうけたまわろう。

2013年6月26日水曜日

変人奇人こそが新しいものを生む

ものごとを、ほかの多くの人とはちがった角度からみる人間を、世間では「変人・ 奇人」と呼ぶ。

私は、変人奇人が大好きだ。

ガリレオ・ガリレイらが地動説を唱えたとき、ローマ教会の教皇や枢機卿などは、

 「なぜ、誰が見ても、太陽が地球のまわりを回っているのに、教会の教えに背いて、地球が太陽のまわりを回っているなどとへそ曲がりの説をいいふらすのだろう。
この男は無神論者のような、許されざる大悪人ではなさそうだが、度しがたい変人だ、奇人だ」 

として、ガリレイを宗教裁判にかけ、むりやり「もう、こんな説は唱えません」と教会側があらかじめ書いておいた文書に強引に署名させた。

1633年のことである。

その後、9年もの間、彼は軟禁された。そしてガリレイはそのまま死んだ。

それから三百数十年後、ローマ教皇ヨハネ=パウロ二世は、「あのときは、どうも申し訳ありませんでした」と、この宗教裁判の判決を全面的に撤回した。

足利事件の菅谷さんどころではない。

しかし、この偉大な変人・奇人が科学をどれほど進歩させたか、いまさらいうまでもあるまい。

ガリレイより1世紀ほど前の芸術家(といっておこう)のレオナルド・ダ・ビンチも、これまた大変人・大奇人だ。

高齢の老人が穏やかに死を迎えようとしていたとき、レオナルドは、老人とじっくり話を交わし、その精神のありようを確かめた。

そして、目の前でその老人が死んだとたん、すぐさまメスをとって老人を解剖し、まだぬくもりの残っている遺体を仔細に検査し、こうも穏やかな最期を迎えた人間の心と体との秘密を懸命にさぐろうとした。

レオナルドは、医学にさしたる貢献をしたわけではないが、人間をほかの誰よりも具体的に、みつめたその成果は、さまざまな比類のない芸術作品の形で結晶した。

レオナルドは、いろいろな宮廷に仕えて、王侯貴族を楽しませる「イベント」屋だった。

それがむしろ彼の本業で、芸術家というのはレオナルドの一面にすぎない。彼は弦楽器や木管楽器の名演奏者でもあった。

彼の遺稿(大半は散逸してしまったが)を読んでいると、ひょっとしたら、レオナルドもひそかに地動説を支持していたのではないかと思わせる部分さえある。これを変人奇人といわずして何と呼んだらよいだろう。

アロマテラピーの祖、ルネ=モーリス・ガットフォセは、香料化学者で調香師(ネ)だった。

しかし、ルネ=モーリスは偉大さの点では前二者には到底及ばないものの、ひどく好奇心の強い男だった。変人奇人だった。

雑誌を創刊して、香水のレシピを次々に発表したり、ギリシャ以来の史観、つまり人間の歴史は黄金・銀・銅・鉄の4時代からなり、黄金時代は、幸福と平和に満ちた時期だったとする考え方を復活させ、現在は「鉄」の時代だとして、黄金時代に戻ろうという願望を、エッセーや小説などの形式で世の人々に伝えようとしたりした。

かと思うと、かつてローマに支配されてガリアと呼ばれていた、古い時代のフランスの考古学的研究をしたり、失われた大陸アトランティスのことに熱中したりした。

しかし、会社の本業も怠らず、販売する品目を400点ぐらいにまで拡大している。

彼は第一次大戦で戦死した2人の兄弟に、一種の贖罪をしなければならないという気持ちが生涯あったようだ。

1937年にルネ=モーリスは、AROMATHERAPIEという本を出版して、この新たな自然療法を世に問うた。

しかし、時、利あらず、戦雲たちこめるヨーロッパでは、サルファ剤、抗生物質剤ペニシリンによる治療ばかりに人びとの注目が集まり、マルグリット・モーリーのようなこれまた変人を除いて、ほとんど誰もこの新しい療法に注目する人はいなかった。

むろん、例外的に、この療法を獣医学に応用しようとした人もいた。イタリアにも、この新療法にインスパイアされた学者、例えばガッティーやカヨラ、ロヴェスティーなど何人かでた。

しかし、はっきり言ってしまえば、アロマテラピーは事実上黙殺されたのである。1937年以降、ルネ=モーリス自身は、医療技術としてのアロマテラピーを発展させようという意欲をかなり失ってしまったようだ。

以後、彼はコスメトロジーのほうに軸足を移した。

ドゥース・フランス(うまし国フランス)が、ドイツに踏みにじられても、たぶん、ルネ=モーリスは、わが藤原定家のように、

「紅旗征戎(こうきせいじゅう)わが事にあらず」

と、定家とは異なった一種の絶望感とともに、現実をうけとめていたように思われる。

もはや、「黄金」時代にこそふさわしいアロマテラピーは、彼の心を少しずつ去りつつあったのではないか。マルグリット・モーリーは、ルネ=モーリスの弟子だったなどというのはヨタ話もいいところだ。

この二人は会ったことすらないのだから。しかし、マルグリットがガットフォセの着想を自分流に組み立て直して、それを自分のコスメトロジーに組み入れていなければ、そしてまた、第二次大戦中に何かの折にルネ=モーリスの本をのちのジャン・バルネ博士(マルグリット・モーリーが博士の弟子だったというのもヨタ話だ)が読んで、その内容を頭の片隅にとどめていなければ、今日、私たちがアロマテラピーなどという療法をあれこれ考えることもなかったはずだ。

ルネ=モーリス・ガットフォセは、1950年にモロッコのカサブランカで亡くなった。

2013年6月25日火曜日

新しいアロマテラピーを目指して

五月に刊行し、発売停止という、出版物としては稀な目に遭遇した私の著書、『誰も言わなかったアロマテラピーの《本質(エッセンス)》 のその後について、ご報告しよう。

私は28年ほど前に、アロマテラピーを日本にはじめて体系的に紹介し、人びとに外国で刊行されたアロマテラピーを研究して、それを人びとに教え、小型の蒸留器で精油の抽出をしたり、英仏をはじめ、米国・オーストラリア・スイス・ドイツを訪れて、精油の原料植物を手にとって調べたり、外国で各国の研究者たちに、英語で自分の研究成果を発表したりしつづけてきた。

私は、本に印刷されたことを読んで、それをすべて真実だと信じ込む幼稚園児クラスの頭の持ち主ではない(おっと、これは幼稚園のこどもたちに失礼なことを言ってしまった)。

私は、ときには、日本だけでなく、諸外国の研究者たちのさまざまな立場から書かれた文献を熟読し、それぞれが信じるにたりるものであるかをあらゆる角度から丹念に検討し、可能な場合には外国の研究者に、じかに面会して、諸問題をできるかぎりつまびらかにする作業に明け暮れた。稼いだ金もすべて研究に費やした。

私は、外国の書籍を翻訳する際には、原則として、その原著者に直接面会して、さまざまに質問して、疑問を氷解させた。私の質問に、原著者が「これはまずいですねえ」といって、原書の文章を私の目の前で書き直したことも何度となくあった。そうした事情を知らぬ読者のなかには、「ここは訳者が誤訳している!」と、鬼の首でもとったように思ったかたもいただろう。

直接、原著者に面会して、ろくにものも知らぬ通訳などを介さずにお互いの意思を通わせるほど、相手の真の姿に接近するよい方法はない。アロマテラピーの専門家と称して、自分の知識を派手にひけらかしている人物が、あってみると、あらゆる意味で薄っぺらな人間だとわかったことも再三あった。英国のアロマテラピーの元祖といわれる男も好例だ。

一言でいうのは困難だが、相手と話を重ねて、その相手と「心の波長」を合わせるのだ。
すると、その人間自身も気づかぬ「何か」が読めてくるのである。
これがまた面白い。アロマテラピーとは直接関係ないことなのだが。

さて、私の著書『誰も言わなかったアロマテラピーの《本質(エッセンス)》』 を、あるアロマセラピストらしき女性が批評して、「この著者はアロマテラピーを勉強したらしいが云々」といっているのを読んで、私は思わず吹き出した。

ねえ、あなた。私がいなければ、今日のあなたも存在しないのですよ。そのことがまだおわかりになりませんか。もうよそう。「バカとけんかするな。傍目(はため)には、どちらもバカに見える」というから。

この本をめぐっての話は、前にしたとおりだから省く。

でも、さまざまな圧力に堪え、私の原稿を製本までしてくださった出版社の社長の勇気と信念には本当に感謝している。妨害と闘いつつ、アマゾンと楽天でこの書物を社長に販売していただいたおかげで、北海道からも沖縄からも、全国的に声援が送られてきた。各地から招かれもしている。本にかけなかったことを、日本全国で存分にぶちまけるつもりだ。

やはり、いまの日本のアロマテラピー界のありようには、おかしなところがある。変な部分がある。資格商売で、公共の利益をうたう法人でありながら、許されないはずの金儲けを大っぴらにしている協会がある。自分の使っている精油はインチキではないか、などと疑いはじめた人が、いま、全国的にひろがっている。

協会や精油会社などで既得の利益収奪権を必死に守ろうとしている連中が、ほうっておいてもどうということもない、私のささやかな著書を圧殺し、断裁しようとして血相を変えているのも考えればすぐその理由がわかる。

アロマテラピーを真剣に、まじめに学ぼうとしている全国の方々に呼びかける。
「あなたの財布だけを狙う、インチキ協会に、インチキ精油会社に、インチキアロマテラピースクールにだまされるな!」と。

日本で、いちばん早くから、いちばん深くアロマテラピーを究めてきた私だ。その私が、いま、はっきりいおう。いまのアロマテラピーの世界には、変なところ、怪しいところ、狂ったところがある。

ルネ=モーリス・ガットフォセの唱えた最初のアロマテラピーの、マルグリット・モーリーの唱道したエステティックアロマテラピーの、そして、ジャン・バルネ博士の植物医学的アロマテラピーのそれぞれの哲学を、今こそ見直すべきだ。

日本○○協会セラピストの資格をとるための、くだらぬ受験参考書などは捨てよう! 私たちは、もっともっと別に学ぶべきことがある。

それをしっかり念頭において、アロマテラピーをみんなで力をあわせてフレッシュなものに生まれ変わらせよう!

2013年6月19日水曜日

沖縄より~高山林太郎が語るアロマテラピーヒストリーPR


週刊ジャン・バルネ博士の芳香療法を行っております坂元健吾です。

先日、お知らせいたしました高山林太郎先生のポッドキャスト番組を
開始いたしました。

「高山林太郎が語るアロマテラピーヒストリー」です。
私が書いているブログにて、番組紹介をしております。
http://meetsnature.ti-da.net/e4913509.html

***

ぜひ聞いてください。(坂元さんより)

リンゴにまつわる話3

リンゴ園農家の主人は、「犯人」がまさか村の名士の校長先生とは知らなかった。あんな大声など出すのではなかった、とホゾをかむ思いだったが、もう遅かった。

校長先生のゆかたの帯はほどけてしまい、汚れたフンドシがむき出しになっていた。事情を知った人の良い駐在巡査は、青年たちに「先生をお宅にお連れしろ」と命じた。

事件にするようなことではないと考えたからだ。あたりには、リンゴのさわやかな香りが一面に漂っていた。

青年が二人で校長先生を両脇からかかえあげた。力がぬけてしまっていたせいで、先生はやせていたのに、妙に重かった。青年たちは、まるで先生をひきずるように、先生を抱えて歩いて行った。

巡査も心配してうしろからついていった。リンゴ園の主人も、みんなから離れるわけにいかず、一緒にいた。

一行は村を二つにわけている線路にさしかかった。踏切は少し高いところにあった。
そのとき、力が抜けていた校長先生が、どこにそんな力が残っていたかと思われる勢いで青年たちをふりきって、踏切に駆け上がった。

そして、汚らしいフンドシからしなびた陰嚢をひっぱりだし、それをペタリと線路の上にのせ、線路のまわりに転がっている石を片手に握りしめ、それで陰嚢を叩き潰そうとした。

死のうとしたのである。

青年たちは「先生、やめてください!」 と叫びながら、一人は校長先生の手をつかまえ、もう一人は先生を羽交い絞めにしておさえた。

やがて、フラリと立ち上がった先生は、ゆかたの前はすっかりあいたまま、フンドシからは貧弱な陰茎としなびた陰嚢とをすっかり露出したまま、「おーんおんおん」と泣き出した。

やがて一行は、先生の家についた。何事かと驚く奥さんに、駐在巡査はことの次第を話した。ことばを選んで、奥さんを不必要に刺激しないように気を配ったことはいうまでもない。

校長先生はもう泣き止み、畳の上でくたっとしていた。一行の一人が、この陰うつな気分を少しでも変えようと、その年の稲作の見通しなどを口にしたりした。

ふと気が付くと、校長先生の姿がない。

先生があまり静かにしていたので、みんな気が付かなかったのだ。

先生は隣室で、あの汚らしいフンドシを高いところにくくりつけ、それで首を吊っていた。

みんなは急いで先生をふとんに寝かせ、すぐに診療所の医者を呼んだ。医者は先生の瞳孔を見たり、脈をとったりしたが、暗い顔で頭を横に振った。先生は亡くなっていた。

一同は、何かたまらない気持ちで、呆(ほう)けたようになっている奥さんにお悔やみを言った。

巡査も制帽を脱いでかしこまり、奥さんに悔みをのべ、リンゴ園の主人も同じようにした。奥さんは、あいさつを返す気力も失せていた。

***

そのあと、校長先生の未亡人とこどもたちはどうなったか、幼い私にはわからなかった。
ただ、こどもながら、何ともやりきれない気持ちになった。暗い夜空にむかって叫び出したいような気分になった。

私はリンゴは好きだが、その香りをかいだり、食べたりするたびに、この悲しい事件を思い出さないではいられない。

リンゴにまつわる話2

と、耳敏いリンゴ園の主人が、「コラーッ」と、どなって家から飛び出してきた。

近くの家々の青年たちが、リンゴ園の主人の大声を聞きつけて、家から何人か出てきた。
リンゴ園の主人は、てっきり村の悪童どもがリンゴを盗みに来たのかと思ったのだった。だが、主人が見たのは、ヘタヘタと地面にへたりこんでしまった、村の名士の校長先生だった。

その懐からは、リンゴが数個、コロコロと転がり出した。先生は、もう腰がぬけてしまっていた。

無理もない。戦争中は文部省に命じられるまま、懸命に毎日、児童たちに「神州不滅、大日本帝国万歳」と叫びつづけてきた校長先生、それがだしぬけに敗戦を迎え、訳も分からぬまま「民主主義」とやらを占領軍におしつけられ、「カリキュラム」だの「ガイダンス」だのと聞いたこともない異国語の教育方針できりきりまいさせられ、そのうえ、恐ろしい空腹でもう半分正気を失っていた校長先生だ。

「体をじょうぶにしよう(ムリにきまっているのに)」

とか

「他人のものを盗んだりしないように」

とかといったことしか教えるのが精いっぱいだったおとなしい校長先生である。その先生が、飢えの極みからとはいえ、こどものためとはいえ、他人のものを盗み、人びとにみつかってしまったのだ。

折悪しく、村の駐在巡査も近くにいて、先生をとりかこんでいる村人に加わった。

校長先生は、いままで自分が築き上げてきた世界が、そして何よりも自分自身がガラガラと音を立てて崩れるのを骨の髄から感じたに違いない。

リンゴにまつわる話3につづき